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一昨年も五時も


 桃谷でも玉造でも鶴橋でも良かったけれど歩いたのは、なんか違うなあと思ったからだった。電車も自転車もなんか違うし、イヤホンでラジオからの歌もなんか違うかった、結局歩いてもなんか違うため、靴がなんか違うからじゃないだろうかと思う。中古で買った三足はどれも合わない、底が剥がれたりする。ラジオはまたもうひとつ大きくずれた歌に差し掛かって、同じ形でもうひとつ大きく彼はずれて、そのずれた形のままイプソンという喫茶店でモーニングした。
 指の曲がったウエイターは接客が丁寧で、自転車が盗られたと言って騒いでる太った女性客にも言いにくそうに交番への道を教えたりしてる、彼の隣には妙齢の女性が帽子を着けたままひとりでパンをかじっていて、こっちと席変わるかと言ってくれた、四人席と二人席だった。いいですよこっちで、と彼が言うと、妙齢女性はわたし食べるんもたばこ吸うんも好きやねん、ほなゆっくりするわ、と言った。黒いとっくりのサマーセーターの上に少し違う黒色のワンピースで、ネックレスの中央には大きな鼈甲が付いていて、その周りには細い金の装飾が何重にもあった、時計はしていなかった。
「わたし食べるんが好きなんよ。こないだ孫と息子とワンカルビ行ったら息子より食べるしねえ、回る寿司行ってもそやからね、化けもんか言われてね、そうなんよ口いやしいの。酒は呑まへんのやけどね、ビールちょっともあかん。口いやしいし口きたないねんなあ、たばこもバカバカ吸うんよ、でもね、わたしこう見えても、どう見えてるか知らんけどね、もう八十八なる、来月来たら九よ九、毎朝こないしてここ来てね、連中とコーヒー飲むのが好きなんよ、連中は市場ゆうかスーパーマーケット行きやったわ、毎朝やっぱり外出なあかん、毎日こうして外出てな、コーヒー別に美味ないで、美味ないやんか呑んだ?」
「肌綺麗で全然そんな風みえへん。元気ですねえ」
「元気見えてたらええわそんで。食べや、食べるん大事よ。わたしでも六キロ痩せたわあ。年末二回風邪引いてね、一週間食べられへんかったんよ、あのときもうあかんて何回も思たなあ。息子の奥さんね、嫁ね、心配してアワビのお粥やらご馳走買ってきてくれんやけど見るだけ。自分でご馳走、ご馳走やったら食べれるやろ思て買うやろ、ほんでも一口舐めて見るだけ。キツかったわあ。こんなに食べるん好きやのに食べられへんねやもんなあ」
と言って妙齢女性はパンを少しだけかじってサラダも二口食べた。ゆっくり食べるので彼はその間にパンを一枚食べた。扉が開いて冷たい風が入ってきた。車イスで来た男性はウェイターに手伝ってもらって車イスを店の前の凹みに停めた。自転車は盗られていなくて移動されていただけで、その車イスの前に太った女性は自転車を停めながら少しも恥ずかしそうでなかった。
「これ見て」
と妙齢女性はおもむろに帽子を取り、首から背中にかかって縦についた手術跡を彼に見せた。妙齢女性は短い白髪で、それに彼は驚いた。
「わたし三回死にかけてんやけどね、これ二回目。椎間板やったか脛椎やったかねえ、これやったときにね、四十三日入院したん。こんとき手術怖くてねえ、なんでて隣で寝たきりになってる、ご飯食べててもおむつのね、喋れんねよ、せやけどその人わたしとおんなじ病気やったんよ、それが嫌で嫌で、怖くて怖くてタクシーで四十三日目に帰って来たん。それでも孫も息子もね、あ、わたしタバコの吸い方息子に教えてもろたんよ、タバコ吸う人かっこええやんか、ほんで鏡見て練習して。そうほんで手術ね、どうしても手術せなあかんようなってもう諦めて、眼が覚めたら首が全く動けへんのね、ごはんも食べられへんし、リモコン触るのも見られへんからこないして。入院する前髪の毛わたし長して結わってたんやけどそれも切ってね、行きつけの美容院行って切って入院したのに、頭つるつるすんねんなあ、それもあんた五千円やでかなんわあ、でもそんなんも言われへんくらい。そいからちょっと良うなって表出てね、一方通行の道で座っててね、目の前を自転車がぎょうさん通んの。それ見てね、涙出た。もうこんなけ動かれへんねやと思ったんやろうねえ」
彼はガチーンと音が鳴るのを頭の中で聞いた、歌だと思った。ずれは治らず。ずれなんてずれたままで、こんなものすごいことがある。妙齢女性はそれから警察病院が好きなことと、洗面器一杯の鼻血が出たとき、医者にそんなもの皆出ていると言われて頭に来たこと、耳が遠くなっていること、連中の一人は腰が曲がっているけど眼を見張るくらい美しいことを彼に言って、彼はタバコを一本吸い終わったからイプソンを出た。イヤホンを耳に着けたけれど着けただけで、なにも再生しなかった。

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