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政治と「怒り」について。政治的活動の原動力「政治的マグマ」について。~今の国会裏金追求やらと、少子化対策いろいろと。なんやかや。つらつらと政治について考えた。「自分の頭と言葉で一から考える」シリーズ。

 ここ半月ほど書いては消し、書いては消しているあるテーマがあります。そうしているうちにだんだん考えがはっきりしてきたので、今日は消さずに最後まで書けるかな。挑戦してみます。

 「政治と怒り」と言うようなテーマです。考え始めた始めたきっかけの一つは、四國光さんの『反戦平和の詩画人 四國五郎』という本を読んで感想文を書いたことです。もうひとつは最近の国会中継をテレビでぼんやり眺めていたせいです。

 四國さんの本の方ですが、本の主人公の反戦の詩画人・四國五郎氏も、著者で息子さんの四國光氏も、戦争そのもの、戦争を起こす人に対しての心の底からの、身体の底からの怒りを持っている人です。一生をかけて反戦の絵と詩を描き続けた五郎氏のその原動力は、若くして兵隊に取られ理不尽な軍隊での暴力を体験し、満州でのソ連との悲惨な戦争で仲間を亡くし、自身も九死に一生を得たのに、シベリア抑留でこれまた大変な経験をし、その末にやっと故郷広島に帰ってきたら最愛の弟が被爆死しており、街も焦土と化していたという体験から来ているのだと思います。普段は優しくユーモアもある家庭人、父であった五郎氏が、戦争のことを思うとき、語るとき、心の底からの、いや、身体的な、怒りとだけでは名づけがたい反応を心と体がする。そういうものが生涯をかけた創作活動と反戦反核活動の原動力であったのだろうということが本からは読み取れます。その思いを息子である光氏も受け継ぎ、本を書いたり、お父様の作品や活動を遺し広める活動に退職後のすべてをかけて活動している。

 こういう創作活動も政治活動も含めたものの原動力にある、内的衝動というかエネルギーを、とりあえず、「政治的マグマ」と名づけて考えることにします。怒りが主成分のようにも思えますが、それをなんとか解決して、よりよい世界、世の中にしていこうというポジティブなエネルギーでもあるので「政治的マグマ」と名づけてみたわけです。怒りとポジティブなエネルギーの混じった、人を政治活動や創作活動に駆り立てる原動力。そういうものが人の中にはあるよなあ、とまず思ったわけだ。

 さて、そういうことを考えているときに、ちょうどやっていた国会中継をテレビで流しっぱなしにして見ていると、まあ野党議員の質問と言うのは、だいたいにおいて激しく怒っているわけです。一方、与党議員の質問と言うのは怒っていません。やたらと政府に、首相や大臣におもねるような声音口調なわけです。声を消して表情を見ているだけでも、あるいは声が出ていても耳が遠くて意味内容としては聞き取れなくてもその口調から、それが野党議員の質問か、与党議員の質問かは分かるわけです。

 ところで、野党議員は、本当に、心の底から怒っているんでしょうか、その、質問している問題について。それとも、「怒って質問する」というのが野党議員質問の定形的な型であるから、演技的に怒った口調と身振りで質問するのでしょうかね。どっちもあるよなあ、と思ったわけです。本気でその問題に対してマグマを抱えている議員もいれば、「お前、怒るの上手だから、質問やれ」みたいな役割と能力の議員もいるなあ、と思うわけです。

 なんでこういうことを考えたかと言うと、人は何でもかんでも「政治的マグマ」にできるほどに、心の底から、身体的反応まで起きるほどに、怒ったり、その解決を心と体の底から願えるのか。という疑問が、湧いてきたからなんですね。

 話は四國さんの本に戻ります。僕はあの本を大変熱心に読んだわけですが、では「戦争と核兵器に対して心の底から、身体の底から怒りと解決のための政治マグマが僕の中にも沸き上がった」かというと、四國さんには申し訳ないのだけれど、そうではないなあと自己分析するわけです。僕が自分のことを客観的に観察し続けた結果として、あるいは自分が何についてたくさん文章を激しい怒りと共に書いているかと言うと、これは「原発問題」と「少子化問題」なんですよね。このふたつの問題については、理屈より先にカラダが反応し、心が怒りに満ちて、何か書かずにはいられなくなる。でも、同じ「核」でも、核兵器問題については、「いやまず、冷静に考えよう」ってなるんですよ。「核発電・反原発」ではあれほど全身反応が出るのに、核兵器問題だと全身反応が出ない。戦争については「いや、冷静に考えよう」ってなっちゃうのに、少子化問題だと、もう、カーッとなるのですね。いちおう理屈でその理由を考えると、日本では戦争で子供が殺されることはここ何十年か無いわけですが、「子どもが生まれない」という形で殺されている。生まれることも、妊娠することもない形で、本来生まれるべき子供が殺されている。僕にとっては少子化問題というのは、そういう問題なんですね。自分の子供たちが、僕ら夫婦がもういっぱい子供を育てていた年齢になっても、結婚できなかったり子供が持てなかったり、六人も子供がいるのに孫はまだ一人じゃん、みたいなことを考えると、もう激しい怒りが心の中、身体の中に湧き上がるわけです。なんでこういう世の中になったんだろうと思ってしまうわけです。

 四國さんに「母子像」のところについて、後日、感想を追加で書きたいと言ったのはこのことなんですね。五郎氏が母子像を熱心に描くようになったのは、明らかに光さんとお姉さま、二人の子供ができて、妻と娘と息子が寝ている、というのを見ているうちに、かつての戦争で、そしてそのとき現在のベトナム戦争で死んでいく母子のことを怒りと悲しみ身体的エネルギーを原動力として、母子像が描かれていく。ベトナム戦争期に母子像代表作が描かれたのは、その時期、息子娘か幼子だったことと関係していると思ったわけです。あの「母子像創作のマグマ」というのは、父となった五郎氏の身体的反応を含んでいると思うのですよね。

 そして、今の僕の中では、そういう身体的な反応が「原発問題」と「少子化問題」に向かうように作用する。なぜか反戦反核にはそういう身体反応が出ない。これは理屈ではない身体的事実なのですね。僕と妻はあまりに長い期間、幼子を抱えての子育てをしてきたので、なんというか「オキシトシン過剰分泌」という身体条件が続いているのではないかと思います。家族身内を守ろうという作用と共に、敵への攻撃性も同時に高めるということが分かっています。戦争原因ホルモンだともいわれているわけです。

 こういう僕の反応というか、各政治課題に対する反応というのは、かなり変わっているのではないかと思います。が、これ、身体的反応なので制御できないです。戦争と核兵器のことなんだからもっと心の底から怒れよ、と言われても体がそう反応しないし、少子化問題はまあ多要素が複雑にからみあった問題だから感情的になるなよ、と言われても、なっちゃうわけです。おそらくホルモン・オキシトシンとかそういうのの分泌と関係した身体反応なんだと思います。

 でね。こうして考えてくると、政治家と言うのは、政治家になる以上、何か一つは「政治マグマ」を心の中に抱えているけれど、それ以外については職業的必要から頭で理解して、がんばって怒ったふりをしていたりするんではないかなあ、と思ったりするわけです。批判しているんじゃなくて、それが自然なんじゃないかと。「少数の本当の政治的マグマ」課題と、それとの関係で、頭で理解している「政治課題」というのがある、そういう課題の軽重というのは、政治家でも、政治活動家でも、一般市民であっても当然にある。それが自然なことだと思うわけです。

 僕も財政規律が積極財政かなんていうのは、正直、よく分からないわけです。MMTをめぐる議論とか、いくら勉強しても。防衛問題も、いくら勉強しても、確固たる考えには至らない。そういう問題があるというのは普通のことなんじゃあないかしら。政治的マグマは、頭で理解する前に心と体が反応してしまう問題何だよなあということ。

 で、野党議員というのは、ほんとに自分にとっての「政治マグマ」問題について国会質問に立つと、これは自然な、本当の「怒り爆発」モードになるわけです。が、ほんとはそうでもない、頭で理解した問題について質問に立つと、「演技的怒りモード」での質問になっちゃうんじゃあないかなあ、と、そんなことを考えたわけです。

 一方、答える首相とか大臣とか役人とかは、たいていの場合、別にその問題が政治的マグマではないので、淡々と、むしろ「なんでそんなに怒るのよ、やめてよー、こわいよー」みたいな態度で答弁したりするわけですよね、

 思い出すと、故・安倍首相はたいていの問題は、政治的マグマじゃないので、役人の作文を一生懸命読むだけだったわけですが、安全保障問題なんかの、自分にとっての「政治的マグマ」問題についての答弁だけは、いきいきと自分の言葉で答弁をしていて、中身はともかく「あ、安倍さん、今日は自分の言葉で話している」みたいなことは伝わってきたなあ、なんて思い出すわけです。

 でね、ここから先が結構大事で、「すっごい怒っている人が質問していて」「そんなに怒らないでよー」と答弁している人、という図式がテレビに映った時に、なんとなく、昔は
「こんだけ怒っているんだから、この怒っている人の方が真剣に切実にこの問題を考えているのだろう。それに対して、この気のない答弁をする大臣は、役人は、きっと悪い人で、何か誤魔化そうとしている人なんだろう」って受け止める人が、けっこうたくんさいて、いやそう受け止める人が半分くらいは出てきてくれたんだろうな、と思うわけ。それで、その状況で選挙をすると、与野党伯仲、みたいな結果が期待できたんだろうなあ、と思うわけです。

 ところがね、最近というのは「何か、激しく怒ってくってかかっている人」というのは、それだけで「ちょっとやばい人なんじゃないか」って受け止める人が、結構増えてきちゃったんじゃないかと思うわけですよ。特に30代以下くらいの若い人なんかに。レジでクレームをつけている中高年のオッサンのことを見て「やべー、クレーマーだ」みたいな感じで、どっちが言っている中身として妥当かじゃなくて、そういう、感情剥き出して怒ってるひとのことを、「ああ、いやだあ」と思っちゃう人っていうのが。

 こういうことを書くと「うわあ典型的トーン・ポリシングだあ」とか批判が来ると思うのですが、これ、「トーン・ポリシング」というかっこいい言葉を使おうと使うまいと、現実的に「批判は悪」とか「大声で叱る上司はそれだけで失格」みたいな若い人が増えているのはほんとうのことなので、この後の選挙に有利か不利か、野党は真剣に考えた方がいいと思うのだよなあ。

 今、国会では裏金疑惑とかで、野党議員は鬼の首でも取ったみたいに攻撃的に質問をしているわけで、それが連日、ニュースになる。なるんだけどね。それで今度選挙をしたら、野党が勝つのかなあ、というのがなんだかよく分からないんですね。

 その上、怒っているのが、「よーし、これで政権、与党をいじめられるぞ」っていう気持ちで、嬉々として演技的に怒っている、と言うように、見えちゃったりもするわけです。店員さんにクレームつけたら、店員さんが下手に出たので、ますます調子に乗って居丈高に怒り始めた厄介なクレーマー、みたいな感じに見ている人がいるんじゃあないかなあ。そういう受け取り方をする人がいるということ、野党議員は分かっていないんじゃあないかなあ。

 穿った見方をすれば、安倍派が狙い撃ちされているわけですが、これって財務官僚がアベノミクス金融緩和派を一掃するために検察と組んでいるのであって、自民党内の勢力分布を劇的に変更する、政権の政策を変更するための、不人気な岸田政権を終わらせるための「与党内抗争・検察と財務省と、もしかしてその背後の米国」みたいなシナリオであって、これで岸田政権支持率が下がるところまで下がっても、選挙前に自民党の新しい顔が何かちょいと気の利いたことをするだけで、結局、野党はあんまり増えないとか、国民民主と維新あたりも含んだ連立政権になるだけで、別に立憲や共産党が勢力を伸ばすわけではないとか、そういうことになるんじゃあないかなあ。

 とにかくね。怒り全開モードで攻撃的に質問している野党議員をテレビでなんとなく見ながら、「必要なのはそういうことじゃない感じがするなあ」と思うわけでした。じゃあどうすればいいのだよ。どうすればいいのかなあ。誰のどういう語り掛けなら「この人に託したい」と思うのかなあ。

ここで話は突拍子もない所に飛びますね。

 昔ね、二院制はなんのためにあるの、っていうのを、イギリス・フランス・アメリカの二院制の起源とか選ばれ方の違いとかそういうことで考えるnoteを書いたことがあるんだけどさ。「怒り爆発モードにしていい衆議院」と「怒りや感情を出してはいけない参議院」みたいにしたらいいんじゃあないかなあ。良識の府って昔は言ってたわけだからさ。討論や質疑の作法をものすごくはっきりとコントラストが付くように規定できないもんかなあ。

 人が感情的に怒っているのを見たり聞いたりしたくない人が、ストレスなく、問題のありかを冷静に判断できるように議論する参議院。

 問題の当時者や、その問題が政治的マグマである議員さんが、心と体の底からの思いをぶつけて、答える側も、その問題を政治的マグマとして活動してきた専門性の高い与党政治家(が副大臣とかそういうのにちゃんとなっている)で、「激情の激突する衆議院」みたいになれば、いいんじゃあないかなあ。

 参議院は、あらゆる問題を大所高所から長期的視点で冷静に語れるタイプのゼネラリストが集まって議論する場所。かつこちらでは政治スキャンダルは扱わない。女性スキャンダルがあっても、政治資金疑惑があっても、刑事訴訟で有罪確定するまでは、そのことについての糾弾を参院では行ってはいけない、みたいにしちゃえばいいのに。お金の疑惑があっても女にだらしなくても政治的に有能なら参議院は政策についての冷静な議論だけをするってしちゃえないのかなあ。それくらい思い切らないと、政策議論が落ち着いてできる、国民が見聞きできる場所がなくなっちゃうじゃんね。

とかね。またバカなことを考えてしまったわけでした。


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