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『歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇』 (岩波新書 2012/8/22 保立 道久 (著) 岩波新書さーん、版元品切れぽいですよ。名著なので増刷お願いします。311のこの日に、ぜひ。

『歴史のなかの大地動乱――奈良・平安の地震と天皇』 (岩波新書) 新書 – 2012/8/22 保立 道久 (著)

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「奈良・平安の世を襲った大地の動乱。それは、地震活動期にある現在の日本列島を彷彿させる。貞観津波、富士山噴火、東海・東南海地震、阿蘇山噴火……。相次ぐ自然の災厄に、時の天皇は何を見たか。未曾有の危機を、人びとはどう乗り越えようとしたか。地震噴火と日本人との関わりを考える、歴史学からの新しい試み。」

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ここから僕の感想

 東北でとても大きな地震と津波で大変大きな被害と犠牲が出た後に当時の天皇が出した詔勅の後半部分。現代語訳。

 「報告によると、陸奥の地域で、激しい地震が起こり、海水は暴れ溢れ、城宇は崩れて、災害をもたらしたという。罪がないにもかかわらず、百姓を罹災させてしまったことに憮然とする。この責任はもっぱら私にある。いま、使者を遣わして恵みを施そうとするにあたり、使者が国司とともに、民であるとか夷であるとかを区別せず、努めて自身で現場に臨み、撫育の仕事をせよ。死者は埋葬し、被災者は救援し、被害が大きかったものは租税を免除せよ。また身よりのなく自立が難しい者は地域の実情をくみ取って十分な支援策をとれ。恵み救いをもっぱらにして、私がその場にいるのと同じように処置せよ。」

本書P138

 「この責任はもっぱら私にある」という部分だけ、現代人には分かりにくいですが、それ以外の部分は、現代の首相が大地震と津波の直後に出した声明だ、と言われても、全く違和感なく納得できる内容だと感じました。

 これ、平安時代前半(光る君への時代より100年以上前)、869年6月のいわゆる貞観大地震、津波の際の(筆者は陸奥海溝地震・津波と呼んでいる)の後に、時の清和天皇、当時18歳が発した詔勅です。

 平安時代の天皇や、この詔勅を実際に書いただろう、その周辺側近の役人、ちゃんとしているなあ。人類って1000年やそこらでは、そんなに変わらないんだなあ。とかいろいろ思います。

「この責任はもっぱら私にある」というのはどういうことかを説明していきますね。

 まず、奈良時代から平安時代にかけては、大きな地震や火山の噴火が絶え間なく続いた時代でした。富士山も何度も大噴火するし、阿蘇山や薩摩の開聞岳も大噴火、東北から東日本でも後の十和田湖ができる大噴火とか、伊豆の神津島やなんかの大噴火も鳥海山噴火も、列島の南から北まで繰り返し大きな噴火が続きます。東南海の地震も東北の地震も熊本の地震も新潟や鳥取の地震も北関東も、あるいは播磨(阪神)の大地震からの影響で奈良も京都も大地震群発地震が多発した時代だったのです。

 藤原京から平城京から長岡京から平安京へと短い期間に遷都しまくったのも、聖武天皇が大仏を立てたのも、実はこれまでの歴史の教科書なんかではあまり触れられていなかったけれど、(国難と言うのは、たいてい、旱魃、飢饉と疫病、というふうに習った記憶がありますよね)、実は大地震と大噴火が連発、ものすごい数と頻度で起きたのですね。しかも河内・大和から京都あたりの地域にも大地震があったのが奈良から平安前期だった。というそういうことを書いてあるのがこの『歴史のなかの大地動乱』という本なのですね。保立さんという方はもともと歴史学者さん、東大名誉教授ですが、東日本大震災を機に、歴史資料の中の地震の記録をすべて見直して、今まで軽視されていた歴史の中の地震や火山の記録と、その影響を研究しなおしている、そういう方です。

 で、当時の支配層の人たちは地震がどうして起きると考えたかの一つの思想的背景として、中国の「天譴思想」=自然の運行と人の善悪に特定の関係を持っている。という天人相関思想にもとづいて、天は王の不徳を譴責するために天変地異を起こす、という神秘思想が信じられていたのだということです。

 聖武天皇も、734年の大和地震の後に清和天皇と同じような詔を出しています。

「このころ、天すこぶる異を見せ、地はあまた震動す。しばらく朕の指導の明らかならざるによるか。民の多く罪に入るは、その責め、予、一人にある。」

本書P31

 ね、やっぱり「自分一人に責任がある」と書いているでしょう。天の譴責を受けるのは、天皇一人だということになっているわけ。

 天皇は、大地震や噴火があると、「自分一人にその責任がある」とわりと本気で感じて、どうしたらいいか本気で考える。今の時代だと「非科学的な」ってなるけれど、当時は、きれいごとの建前としての「私一人の責任」と言っているわけではなく、本当に、統治の姿勢や内容と、天変地異の頻発の間には相関があると信じられていたようなので、ものすごく必死になって、地震の神様がまつられている神社を格上げしてみたり、寺社を立てたり、お祭りをしてみたり、まあ、いろんなことをするわけです。

 もちろんもう一つは、怨みをもって死んだ偉い人が祟神になって天変地異を起こす、ということも信じられていて、奈良時代だと長屋王の怨霊が、平安時代だと866年応天門炎上事件で責任を取らされて流罪後868年に死んだ伴善男が怨霊化してということも直接的天変地異の原因と当時は考えられたのです。日本の神社って、地震や火山を鎮めるものと、怨霊化した偉い人を祀るものが多いと前に書いたことがあるけれど、その両面が混然一体となっているわけですね。

 天譴思想と怨霊の関係も、政争のライバルが不遇の死を遂げて怨霊化してしまうということも、それは天皇の政治の重要な一部であり、天変地異の原因となる。天の譴責の原因となるということなのでしょう。

ちなみに、清和天皇の詔勅の前半部分を以下引用。

「詔して曰く。中国の神話上の王である伏義・神農や堯・舜とは時代が違うとはいっても、私も民を思う心労や民を恵む意思という点では変わりがない。自身は周王朝の時代にも起こり、王家(姫氏)初代の文王はそのために自分の身を責め、旱は殷王朝の時代にもあって、初代の湯帝はそれを自分の罪としたという。私もこの版図を預かり、徳を修め、民の要望に従い、幸いを共にして、災いを消そうと努めてきたが、その至誠が通じないまま、天は譴責を下し、地は安定を失いことになった」

本書P-31

これに続いて冒頭に紹介した「報告によると」につながるのです。

 このあたりのことを考えて思うのは、日本人の心の底の方に「天譴思想」というのは生き続けているのだよなあということ。本当は為政者、国のトップには、大きな震災が起きたら、「これは私一人の責任だ、今の政治が良くなかったせいだ」という言葉や姿勢を求めているんではないかなあということ。科学的には全くバカバカしい話だけれど、しかし、そういう思いが国のトップの根底にあるかないかで、その後の被災者救援支援や復興への取り組みの「国のトップとしての持続する責任感」というのが違ってくるのじゃあないか、というふうに日本人、国民一般は思っているんじゃないかなあ。被災者を視察慰問に行った際の振る舞いに、そういうことが、「心がある、ない」が出てしまう。そんなことを思うわけです。

 長期的に継続しなければいけない大災害の被災者の救援支援の取り組みを、国として続けるには、全く科学的根拠は無くても、心の底に「天譴思想」的な責任感と言うのが、国のトップには必要なんじゃないか。その当時の国のトップだった人にも、今、国のトップである人たちにも。

 震災が起きた直後、ちゃんと対応しようとしているかどうかについて、それは昨日のNHKスペシャルの地元自治体職員の様々な立場の人が、本当に大変な思いをしてできる以上のことをやろうとして心身とも限界の中で対応されたことは間違いない。それはその後の震災でも現場の自治体職員や自衛隊の方たちの尽力というのは、間違いないのだけれど、

 僕が言っているのは「日本の国のトップ、政権、中国思想でいう天から国を任されている「王」たるものの責任、ということね。

 それ以外にも、この本、いろいろと面白いので、この311の機会に、ぜひ。

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