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『周期律』プリーモ・レーヴィ (著), 竹山 博英 (翻訳) 枕詞として「アウシュビッツ収容所の体験を書いた」と言われるレーヴィですが、本作では化学を志し学んだ学生時代から化学者として様々な仕事をして戦中、戦後を生き抜いたその半生を、元素名をタイトルとした21の短編で多角的に描いたもの。それもありだがそれだけじゃない。

『周期律』 2017/10/19
プリーモ レーヴィ (著), 竹山 博英 (翻訳)

Amazon内容紹介

アウシュヴィッツ体験を持つユダヤ系イタリア人作家プリーモ・レーヴィの自伝的短編集。
アルゴン、水素、亜鉛、鉄、カリウム……
化学者として歩んできた日々を、周期表の元素とからめて語る。
科学と文学を高純度に融け合わせた逸品。

Amazon内容紹介

本の帯

イタロ・カルヴィーノ、ウンベルト・エーコ絶賛!
イタリア文学の至宝。
収容所での体験を書いた『これが人間か』の著者が、科学と文学を高純度に溶け合わせた逸品。
「メンデレーエフの周期律こそが一篇の高貴な詩である。それは韻すら踏んでいた……」

本の帯

ここから僕の感想

「ホロコースト、アウシュビッツ収容所を生き残った、その体験を書いた」というのがプリモ・レーヴィの枕詞のように使われちゃうので、全篇、そういう本なのか、と身構えると全然そうではありません。一部、そのことは人生の一部として書かれていますが、それ以外、それ以上の、人生の全体が表現されています。

 元素名をタイトルとする21の短編連作、全体として時系列での自伝評伝的色彩の濃いものになっているのですが、直接、アウシュビッツでの体験を書いたのは「11 セリウム」のみ。あとひとつ、戦後、アウシュビッツでの加害者側だったドイツ人化学者と仕事で関係が生まれたときの複雑な関係・感情を描いた「20 ヴァナディウム」(ドイツ人側からの「過去の克服」がユダヤ人側からどうとらえられるかを描く、重たい短編でした)。この二篇が直接的に「ホロコースト」に関わるものでした。

 むしろ、イタリア、その北西部、トリノを州都とするピエモンテ地方に根付いたユダヤ人として、戦前から戦中・戦後を、化学に興味を持つ若者として、化学を学ぶ大学生として、そして化学の知識をもって工場や企業の研究所や鉱山や、さまざま働いて生きてきた人生の全体を描いた、短編連作小説でした。ユダヤ人であること、ホロコーストを経験したことも、その人生の中の、極めて重大な要素ではあるけれど、「化学とともに生きてきた」というのも同じように重要な要素で、つまり一人の人間の全体や人生を「ユダヤ人」という属性や「ホロコーストの、アウシュビッツの生き残り」ということに還元してそのことからすべてを解釈しようということに対し、より全体としての自分を語ろうという試みとして書かれているように思われました。そのためのアイデアとしての「元素タイトルを持つ短編集」なのではないかしらと感じました。あるいは著者にとって、化学という専門性から、物質との関りをもって世界と関わる、それが筆者という人間の核にある。そういうことが書かれた本でした。そういう世界との関わり方を持つ人間だからこそ、それは極めて具体的な意味でも精神的な意味でもアウシュビッツを生き延びられたのでは、というそういう視点も筆者は提出しているように感じられました。

この本との出会いと読み始めたきっかけ

 昨年、読書師匠しむちょんが読んで教えてくれた本で、しむちょん感想文を読んですぐAmazonで購入していた。
 そしてAmazonからこの本が届いたときに、ちょうど感想文を書いていた『反戦平和の詩画人 四國五郎』 四國 光 (著)の、そのあとがきの一番最後でプリモ・レーヴィに言及されていた。というようなことで不思議な縁がある本だなあ、と思っていた。ですが、まあいろいろ読むべき本もたまっていて、とりあえずしばらく積読状態になっていた。

 それが、10月初めに勃発したイスラエルとガザの紛争が長引く中で、イスラエルがあそこまでひどいパレスチナ人へのジェノサイドといっていい徹底的な民間人子供まで含めた殺戮を国際世論の批判にも拘わらず全くやめる気がないことから、「第二次大戦中のホロコーストに対する責任から、西欧欧米諸国がイスラエルについて、イスラエルのここ数十年の国際法違反、国連決議違反のパレスチナに対する残虐違法行為を批判せず免罪してきたせいではないか」という意見というのがメディアで見られるようになってきた。

 実は、先に挙げた『反戦平和の詩画人 四國五郎』の読書感想文の中で、僕は以下のようなことを書いている。

第二に、私は「アウシュビッツ・ホロコースト」をテーマにした小説や映画が苦手である。あまりに悲惨であまりに極端な悪が存在するとき、それを読むときに、「神妙な顔をして、居住まいを正して」読んだり理解したりしなくてはならないという、自分の中の変な圧力、自己規制みたいなものが心と頭に生まれてしまうからである。明らかに悪があれば、同時に片方に正義が存在してしまうという価値判断もある程度初期的に固定されてしまうし、そういう価値判断と心の動きにあらかじめ規制と言うか、方向付けというモノが生じてしまう。それは文学を読むときの「心の構え」に対してよろしくないなあ、と思うのである。

私の感想文note

 ホロコーストを扱う文学や思想や映画において、「ナチス=絶対悪・絶対的加害者」が同時に「ユダヤ人絶対的被害者」というところまでは固定的であることまでは可としても、戦後のすべての「ユダヤ人のすること、ユダヤ人国家イスラエルのすること=絶対善」の訳ないわけであるが、そこが批判されにくいされにくい状態が欧米諸国にあった、今でもあるのは事実だと思う。
 その中でも、今回の紛争後の各国の対応にはかなりばらつきがあったのだが、特にホロコースト加害者であったドイツでは左派進歩的知識人までもが、知識人である要件としてイスラエル絶対支持であることが求められているという特異事情が改めて顕在化したし、イスラエル建国を後押ししたイギリス、国内の政財界・メディアや映画業界にユダヤ人が強い影響力を持つアメリカも「どんなにひどいことをしてもイスラエル支持」という勢力が依然として強い国であることが明白になった。

 イスラエルって。ユダヤ人って。どういう国でどういう人たちなの。ホロコーストのことを知ることと、その意味を考えることと、ユダヤ人について考えることと、イスラエルという国についてどう考えるということ、イスラエルの現在の行為を考え評価、判断すること、これらをどうつなげ、どこは切り離し独立した問題として考えなければいけないのか。

 そんなことを考えるようになり、本を読んだりNHKや海外テレビ局のドキュメンタリー番組をまとるて見たり、そういうことをしていた。

 そんな中で、あっそうだ、この本のことを思い出して、読んでみようと思ったわけでした。

 で、まあそういう固定観念的な「ユダヤ人」とかなんやらを、いろいろな角度から揺さぶる、そういう本だったのですね。印象に残ったいくつかの短編を取り上げながら、感想書いていきます。

「1 アルゴン」

 冒頭のこの短編、(ただの抽象的ユダヤ人としてではなく)、著者の祖先、イタリアの北西の端トリノを州都とする、アルプスのふもとのピエモンテ州に1500年ころから移り住んだユダヤ人の集団の歴史と、より近い祖父あたりからのたくさんの具体的な親戚たち一人一人の短いエピソード紹介から成る。なんというか、古事記とか創世記とかの神話のはじめの方が、知らない人の名前,系譜が延々と語られて「知らない人の名前をそんなに言われても分からないよ」と読むのを挫折しちゃうような、そういう、筆者の一族の創世記みたいな短編である。がその中で、ユダヤ人といっても、言葉もヘブライ語とイタリア語の入り混じった方言だったり、非ユダヤ人の悪口を言うときのための彼らだけに通じる隠語とか、衣食住の習慣風俗とか、そういうものがピエモンテのイタリア人の中に、どれくらい溶け込み、どれくらい浮いた存在として生活してきたか、そういうことが生き生きと語られているので、挫折することはない。 あのおばさんはカトリックと結婚して自身もカトリックになった、とか祖父はハム(本当は豚肉はユダヤ教ではダメなんだが)の誘惑によく負けてしまったとか、婚姻関係についても宗教についても食の禁忌などについても、ユダヤの、いやピエモンテ地方のその集団のあり方。そうなんだなあということが分かる。「ユダヤ人」というひとくくりでは括り切れない、筆者の一族に関しては「ピエモンテに住みついたユダヤ人の集団」というのが、それとして独特の歴史と、非ユダヤの多数派との関係の取り方と、差別されていたという側面と、共存していたという側面が入り混じった歴史をもつのだなあ。そして本書に書かれてはいないのだけれど、きっと、欧州各地、中東の、あらゆる地域で、ユダヤ人の集団というのは、それぞれに異なる存在の仕方、歴史を、非ユダヤが多数派の社会の中での存在の仕方をしていたんだろうなあということが想像されるのである。

「10 金」

 イタリアにとって、イタリア人にとって第二次世界大戦というのがどういう体験だったのか、ということを、最近まで私は全く知らなかったし考えたことも無かった。
 中学の歴史の授業も高校の世界史の授業も、私の大学受験・世界史の勉強も、時間切れで現代史はほとんど手付かずだったし、第二次世界大戦についての映画や小説やなんやかんやも、たいてい、ドイツナチスが悪の主役で、イタリアというのは添え物脇役としてちょろっと出てくる程度。
 という言い訳をしてみても、とにかく本当に、何にも全く知らなかったので、ちょいと前にマイケル・オンダーチェ『イギリス人の患者』(アカデミー賞を多数受賞した名作映画、『イングリッシュ・ペイシェント』の原作)を読んだとき、イタリア、フィレンツェを舞台に、第二次大戦末期、連合軍とナチスドイツが交戦していて、「え、え、何々、イタリアでドイツ軍と連合国軍イギリス軍のインド人が???、イタリア人出てこないじゃん、全然事情が分からない」ってなったのね。なので、この『イギリス人の患者』の感想文を書くときに、Wikipediaさんに教えてもらって、以下のように大戦末期のイタリアについてまとめている。

 イタリアは、枢軸国では、いちばん初めに1943年7月末には敗色濃厚になり、ムッソリーニは失脚監禁され、後を継いだバドリオ政権は連合国と秘密休戦協定を9月3日には結び、ローマを無防備領域とすることになった。ところが「秘密」なのに、アメリカのアイゼンハワー連合軍司令官が9月8日にイタリアの無条件降伏を発表しちゃったものだから、「そんなことじゃあないか」と疑って準備をしていたヒトラーは、速攻でローマに侵攻、9月10にはローマを占領しちゃうのだ、ナチス・ドイツ軍が。で、監禁されていたムッソリーニをドイツ軍が解放して、イタリア北中部に、ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国」っていうのをナチスドイツは作っちゃうのだな。で、それに対して、連合国はイタリア半島の南はじっこ、長靴のさきっぽの隣にあるシチリア島から半島に上陸して、北上しながらドイツ軍を追い出す作戦や、フランス側から攻めて行ったり、ユーゴのチトーの協力で東北部から攻めて行ったりと、ドイツ傀儡政権が占領したイタリアのドイツ軍をじわじわと攻めて行った、というわけだ。

僕の感想文

 というわけで、この短編集の中の「10 金」というのが、ムッソリーニ政権が敗色濃厚になっていたころから、ドイツ軍に占領されてしまうという時期に、主人公、筆者がどういうふうに戦争を感じ、どう行動し、どうなっちゃったかを描いていて、大変、興味深いので、ここからは、超長く、引用してみようと思います。

 ミラーノに移り住んだトリーノ出身者は、うまく根づけないか、根づいても居心地が悪い、ということはよく知られている。1942年秋に、ミラーノには七人のトリーノ出身者の友人がいた。若い男女で、様々な理由から大都会に乗りこんできたのだが、町は戦争のため、住みにくくなっていた。まだ両親が生き残っている者もいたが、その両親たちは爆撃を避けて田舎に疎開していた。私たちは広い範囲で同じような生活をしていた。

本書p196

筆者は化学者、友人たちは建築家、法学士、オリヴェッティの技師、女性たちは、画廊勤務、化学者。出版社勤務。

どうも、大卒高学歴な人たちは男性も兵役は逃れられているようである。

 もし記憶違いでないのなら、エットレを除いて全員が詩を書いていた。(中略)だが当時、世界が炎に包まれている時、悲しく、憂鬱で、さほど美しくない詩を書くのは、私たちには奇妙でも、恥辱とも思えなかったのだ。私たちは
自らをファシズムの敵と明言していたが、実際にはファシズムは、ありとあらゆるイタリア人と同様に、私たちにも作用して、私たちを外部に排除して、表面的で受動的で冷笑的な存在にしていた。
 私たちは意地悪な喜びを覚えながら、食料の配給と、石炭のない部屋の寒さに耐え、イギリス軍の夜間爆撃を受け入れていた。それは私たちに向けられたものではなかった。私たちの遠い同盟者が持つ力を示す。野蛮な印だった。かまわずやってくれればよかった。私たちは当時屈辱を受けたイタリア人がみな考えたことを考えていた。つまりドイツ人や日本人は無敵であり、アメリカ人も同じだったので、戦争はあと二十年も三十年も続く。それは果てしない、血みどろの停戦状態だが、遠い出来事で、内容をゆがめた戦時公報でしか知ることができなかった。だが時には、同年代の若者の家族から、「自己の義務を英雄的に果たす中で」という事務的な戦死通報によって、かい間見ることもできた。それはリビア沿岸やウクライナのステッぷのあちこちで踊られていた死の舞踏で、終わりがないと思えた。
(中略)演劇や音楽会にも出かけたが、空襲で中断された。(中略)アーリア人の残酷なゲームの外にいて、オニールやソーントン・ワイルダーの劇について語り、グリニェ山の岩壁に上り、互いに少し恋に落ち、知的遊戯を発明し(中略)美しい歌を歌った。

本書p197~8

ミラーノに暮らすインテリの若者たちの、戦争の中で、もちろん空爆や物資不足はありつつも、当時者意識から離れた、宙ぶらりんな感覚というのが描かれている。

そしてナチスによるユダヤ人の迫害、すでに進行中の大量虐殺についても、以下のような認識だったのである。

この頃、ドイツ軍に占領されたヨーロッパで起きていたこと、アムステルダムのアンネ・フランクの家、キエフ近郊バービー・ヤールの溝、ワルシャワのゲットー、テッサロニムキ、パリ、リディッツェで起きたこと、私たちを呑み込もうとしていたその悪疫については、いかなる正確な情報も私たちのもとには届いてこなかった。ただギリシャやロシア戦線の兵站地から帰ってきた兵士たちの曖昧で不吉なほのめかししかなかったが、私たちはそれを割引する傾向があった。私たちは無知ゆえに生きていた。それは山登りをしていて、ザイルがすり切れそうになっているのに、気づかなくて、かまわず登っているのと同じだった。 

P199

それが、ごく短期間に急激に変わる

 だが11月に連合軍が北アフリカに上陸し、12月にレジスタンス闘争が始まり、ロシア軍がスターリングラードで使用利すると、戦争が身近に迫り、歴史がその歩みを取り戻したことがわかった。数週間のうちに、私たちはそれぞれ、今まで二十年分以上に成熟した。影の中から、ファシズムに屈しなかった弁護士、教師、労働者などの人たちが出てきた。私たちは彼らの中に自分たちの教師を認めた。

p200

年が変わり1943年になるとさらに事態は加速し

三月にトリーノでストが行われ、危機が間近なことが示された。七月二十五日にはファシズムが内部崩壊し、広場では手を取り合う群衆で満たされた。それは自由が権力者の陰謀によさって与えられた国の、当てにならない、束の間の歓びだった。九月八日になると、ナチの師団が緑灰色の蛇のように、ミラーノやトリーノの街路に侵入し、荒々しく人々の目がさまされた。喜劇は終わり、イタリアはポーランド、ユーゴスラヴィア、ノルウェーと同様に占領国家になった。
 こうして長い間言葉に酔った末に、自分たちの選択には確信を持ち、手段にはまったく自信のないまま、心には希望よりも絶望をかかえて、破壊され分断された祖国で、私たちは自分を試すために戦場へ降りて行った。私たちは各々が別の谷に入り、自らの運命を追うために別れ別れになった。

p201

ということで、ナチス傀儡政権に対するパルチザン闘争にはいるのだけれど、すぐに捕まっちゃうのね。「ピエモンテ州全体で一番武器がなく、おそらく一番未熟なパルチザン舞台だったろう。」

 で、残虐な尋問者にこう言われるの。お前がユダヤ人であることを知っている。それはいいことでもある。ユダヤ人かパルチザンか。もしパルチザンならすぐ壁の前に立たせる。(すぐ銃殺するということ)。ユダヤ人なら、よろしい、カルピの収容所に送る。

 ということで、筆者はユダヤ人であることを認めて収容所に送られるのである。ユダヤ人であることを認めることで生き延びるのである。

「11 セリウム」

アウシュビッツの収容所に送られたころは、すでにロシア軍が間近に迫り、ロシア軍の爆撃が日常的にある状態。筆者は化学者として、ドイツ人科学者のもとでなんらかいろいろ仕事を与えられ、激しい飢えに苛まれながらも、なんとか生き延びていた。その中で、あらゆる機会をとらえて、食べ物確保につながる盗みを働き、(仲間の食べ物以外は何でも盗んだ)、それをなんとかして食べ物に代える手段を考えた。という収容所での生活と生き延びようという努力について書かれている。この体験については、もうすでに他の本で書いた、ということで、「セリウム」関連のこと以外はさらりと書かれている。ので、その別の本『アウシュヴィッツは終わらない これが人間か』は、買って今度読もうと思うのである。

この短編の次は、もう戦後の話になる。化学者としてどういう職業を得て、どうやって生活を、生き抜く道を切り開いていったか、という話になっていく。

「20 ヴォナジウム」

は、すでに1966年から1967年、戦後20年以上たっての話である。イタリアの塗料会社で働く筆者は、ドイツの大手化学会社から購入した塗料用樹脂の品質に問題があり、先方の技術者と手紙のやりとりを始める。その相手が、「ナフテン」という物質のことを必ず「ナプテン」と書いてくる。このように書く人物と筆写はかつて一緒に仕事をしたことがある。アウシュビッツの実験室に、ときどき指導観察に来ていた民間人のドイツ人技術者、ミュラー博士と呼ばれていた人である。当時、粗野な人物の印象はあったが、観世な敵対者でもなかった。「なぜなら、何らかの形で、一瞬のことだったかもしれないけれが、あわれみか、単なる職業的連帯感のかけらかを、感じたからだ。」

 筆者はすでに『アウシュヴッツは終わらない』を出版していたので、その本とともに、あのときのミュラー博士なのか、私のことを覚えているのか、という手紙を送る。

 ミュラー博士は自分であることを認め、筆者に会見を求める返事を返信してくる。

この機会に当時の覚書を読み直した。と書いてあった。それについて私は喜んで語るつもりだ望ましい会見の席で「それは私にとっても、あなたにとっても有益で、あのおそろしい過去を克服するために必要である」からだった。そしてアウシュヴッツで出会った囚人の中で、最も強く、永続的な印象を与えたのは私だった。と最後に言っていた。だがこれはおせじだと思えた。手紙の調子と、特に「克服」という言葉から、彼が私に何かを期待していると感じられた。
 (中略)まだかなりぼやけてはいたが、私から赦免のようなものを求めているのは明らかだった。それは彼が克服すべき過去を持ち、私はそうでないからだ。

p330

このやりとりから始まる、筆者の複雑な思い、が語られる。この短編最後の方、引用。

 だが遠い昔に私に特典を与えてくれ、厳密な意味での敵ではなかったにもかかわらず、私は彼を愛せそうになかった。彼を愛していなかったし、会いたくもなかった。しかし少しだけ尊敬の念を抱いていた。それは単眼であるのは必ずしも快適ではないからだ。かれは怠惰ではなく、耳が聞こえないふりはせず、冷笑的ではなかった。十分に適応できず、過去の精算を迫られ、帳尻はうまく合っていない。彼はおそらく少しごまかすことで、帳尻を合わせようとしていた。元突撃隊員にこれ以上の多くを求められるだろうか?私は海水浴場や工場で他の多くの正直なドイツ人と会った時、彼と比較してみたが、彼を支持せざるを得なかった。彼がナチズムを断罪する口調は臆病で遠回しだが、自己正当化をしようとはしていなかった。彼は対話を求めていた。彼は良心を持ち、それを平静に保つために苦闘していた。かれは初めの手紙に「過去の克服」Bewaltetigung der Vergangenheitについて書いた。私は後になって、これは今日のドイツの決まり文句、婉曲表現であり、広く「ナチズムの贖罪」と理解されていることを知った。だがそれに含まれている語幹のwaltは、支配、暴力、強姦といった言葉にも表れており、「過去の克服」を「過去をゆがめる」「過去に暴行を加える」と翻訳しても、その深い意味からさほど離れない、と私は信じる。だがそれでもこうした決まり文句に逃げこむほうが、他のドイツ人たちに見られる、咲き誇る鈍感さよりましなのだ。彼の克服しようという努力は不器用で、やや滑稽で、いらだたしく、悲しいが、品格がある。それに私に靴を一足くれたではないか。

p338~9

 今まさに実は、私のnoteの方から教えていただいた『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』石田勇治著という本を読もうとしていたところで、いろいろなことがつながっていくなあと思うのでした。

 アウシュビッツの、ホロコーストの、というだけの内容ではありませんと冒頭に書いたのに、結局そこに関連したものを中心に感想を書いてしまったのですが、途中に、若き日の筆者が書いた南洋の孤島を舞台にした不思議な短編があったり、いちばん最後の「21 炭素」は化学的な散文詩のようであったり、恋愛下手な理系男性の、恋愛遍歴の話だったり、実にいろいろな視点で楽しめる本でありました。


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