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「で”も”いいんだよ」なんて言うのはやめませんか?

リベラルな人たちは言う。「おじいさんが川へ洗濯に行って”も”いいんだよ」「おばあさんが山へ芝刈りに行って”も”いいんだよ」などと。多様性が叫ばれる昨今、様々な属性の人々が様々な行為をすることを容認するべきという論調が主流になっている。旧来の価値観であれば好ましくないとされてきた行為も「それでもいいんだよ」と暖かく受け入れる社会的風潮がいまある。私も基本的に自由を愛する諸国民の一人であるため、そのような時代の流れは好ましいと思っている。例えばLGBTについても、以前であれば同性同士の恋愛は好ましい行為とは思われていなかったため、それどころか治療の対象であると考えられていたため、同性に恋をしたなどと公言することはできなかった。私自身は男性であり女性が恋愛対象で、自分の性別も男性だと自認している。であるからLGBT当事者とはいい難い。しかし、最近ではVRChatを通じて男性同士の恋愛やセックスを目の当たりにし、自分もそのような経験をすることとなり、LGBTに似た当事者となることで、多様な人々を受け入れてくれるという懐の広い人々によって構成された現代的なコミュニティは大変居心地がいいものだと改めて実感している……いや、「いた」と言うべきだろう。

人間という生き物は、画一的な側面もあるけれども、よくよく見てみるとひじょうに多様性に満ちた生き物であるのだ。同性愛者もいれば、車や音楽といった無機物に恋愛感情を抱く者もいるし、恋愛感情が存在しない人もいる。キリスト教徒やイスラム教徒、仏教徒、その他様々な宗教が存在し、それぞれが多様な神を信仰して、神などいないと信じる者もいる。自分の名字を大切にしたいと考える人もいれば、愛する人と同じ名字にしたいと考える人もいる。これらすべての人たちの多様性を担保するためには、「自由」の概念が不可欠だ。そしてそれは我が国では憲法によって保障されている。特に「私はこうありたい」「私はこう考える」という個人の思想信条については無制限の自由が保障されている。そしてそれらを表現する自由、実現しようとする自由もまた憲法で保障されている。我が国の憲法は、まさに人間の多様性を尊重した憲法であることは疑う余地はない。

しかしながら、自由とは往々にして別の誰かの自由との両立が難しい場合がある。「私は同性が恋愛対象なのだ」という人と「いや、同性愛など許されるべきではない」と考える人がエンカウントしたら争いが起きるだろう。そのような争いがなるべく発生しないようにすること、発生したとしてもなんとか両者を尊重するようにしていくことが現代の多様性の課題であると私は考える。

ところがどうか。現実では「多様性のある社会を目指すべきだ!」と声高らかに訴えていた人たちがこぞって特定の思想の持ち主や、特定の表現をした人たちを排除しようと熱心になっている光景を何十回、いや何百回と見てきてしまった。「私は同性が恋愛対象なのだ」という人と「いや、同性愛など許されるべきではない」と考える人がエンカウントしたとき、「いや、同性愛など許されるべきではない」と考える人を社会悪と断定して、そのような価値観を根絶しようとしているのだ。多様性のある社会とは「私は同性が恋愛対象なのだ」という人と「いや、同性愛など許されるべきではない」と考える人が日本という国の中で殺し合うことなく生きていける社会のことではなかったのか。

ここ数日では、夫婦別姓制度についてツイッターで話題になっているが、「夫婦は同姓であるべきだ」と考える人を浅学で愚かな人で道徳的に劣った人であると詰っている光景が目につく。夫婦別姓制度を実現しようとしている人たちは「別姓という選択肢が増えるだけ。同姓にしたい人は今までと変わりはない」などと「別姓で”も”いいんだよ」と言っていたはずだ。(私は「同姓にしたい人は今までと変わりはない」などとは思っていなかったが)同姓にしたい人をそのように詰っているようでは「同姓にしたい人は今までと変わりはない」という建前を自ら放棄しているように見えて仕方がない。そもそも、多様性の文脈で言えば、まさに伝統的な結婚もまた自由であるべきであったはずだ。「選択肢が増えるだけ」という”先進的な”考えによって伝統を破壊することは、それこそ多様性を否定する行為ではなかろうか。古今東西さまざまな人々、文化の存在する多様な社会を目指すならば、伝統的な価値観、考えもまた、新しい価値観、考えと同じ熱量で尊重されるべきものだ。ところが現状では「多様性が大事なんだ!」と訴えている人は、結局のところ「伝統の破壊者」にしかなれておらず、多様性のある社会の実現などというものは理想ではないのだなと嘆息してしまうのである。

あなた達は「○○”も”いいんだよ」などと言うのはやめるべきである。あなた達が主張しているのは「○○”であるべきだ”」なのだから。

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