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自分の気持ちに正直に、やりたいと思ったら行動する 九州工業大学 毛利 恵美子 先生

橋本先生にご紹介いただいた毛利先生にインタビューさせていただきました。

ナノセルロースから新材料をつくる

—今どんな研究をされているか簡単にお教えください。

毛利先生:今の1番のメインテーマはナノセルロースの研究です。紙を作るときの植物の成分であるセルロースをナノ化という技術を用いて、ナノサイズの粒子を作り、それを使って新たな材料を作っています。

私は最近准教授になりました。今まで自分自身の学生はいなかったため、このテーマをやりたいからと進めていけるわけではなかったのですが、自分の学生もいることになったので、本格的に始めたところです。実績があるわけではないのですが、セルロース関係の論文を1本出したという状況です。

今、紙が電子化により必要ではなくなってきていますし、日本は森林大国であるため、セルロースの資源は豊富であり、それに付加価値をつけて使えるようにできると国にとっても環境にとってもプラスになります。

例えば、合成プラスチックのストローを紙ストローにしましょうという話がありますが、自然のものに変えていきましょうという流れがあります。この流れもあり、セルロースはいいのではないかと思い、数年前から始めたところです。

—数年前ということは、今まではどのような研究をされていたのでしょうか。

毛利先生:色々やっているんですが、一貫してやっているといえばコロイドを扱うことです。コロイドとは高分子も含むのですが、普通の分子よりもサイズが大きいもので、物質の種類による概念ではなくてサイズの概念なので、無機物も有機物も両方扱ったりしてます。

今一緒に研究をしている中戸教授は無機化学の専門家で、ナノシートの液晶を研究されている先生で、その先生の研究室で10年くらい助教として一緒にやっていました。独立した立場ですが、研究室として無機のナノシートのテーマも一緒に取り組んでいます。

先生に進められて始めたコロイド

—なぜコロイドをやり始めようと思ったのでしょうか。

毛利先生:私は元々高専の出身で、高専は高校と違って受験を目標としてるのではなく、大学の先生のような人が自由に教えてくれるところで、「コロイドはこれからいいぞ」、「コロイドは塊の時と全然異なる性質が出るので面白い、けれどあまり明らかになっていないのでこれからやることがある」と言っていただいたことが頭にあって、大学編入時に高分子の研究室を選びました。

高分子もある側面では分子コロイドと言われるコロイドなんです。1分子なんですけど大きくてコロイドサイズになってしまうからです。なので、高分子の研究なんですけどコロイドという側面もありました。その研究室で高分子のミセルや高分子の薄膜を行っていました。

そこからコロイドをやり始めて、学位を取った後も高分子の研究室にいました。シリカなどの粒子にひげのような高分子を生やすこともやっていたりと、20年くらいコロイドをやってます。

サイズの概念なので、コロイドとわざわざ思わなくても、実はこれコロイドだよということも結構あると思います。塗料なども粒子が分散してたりしますけど、コロイドです。液体とは限らず、煙などのエアロゾルもあります。広すぎてわざわざコロイドですと言わないだけで皆さん関わっていると思います。

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↑毛利先生にオンラインでお話しをお聞きしました。

当時の高専卒女性のキャリアにショックを受け大学進学を決意

—大学に編入しようと思ったのは何か理由があったのでしょうか。高専の方で卒業する方と大学へ編入する方の割合はどれくらいなのでしょうか。

毛利先生:私の時代は古く、今の参考にはならないですが、30人いてそのうち6、7人ほどが進学でした。今は専攻科というのがあって、高専を5年行った後にもう2年行くコースが充実していますが、当時は編入して大学へ行くことが普通でした。

今は高専の専攻科に行くことをまず考えるのではないかなと思います。その専攻科へ行った後に大学院に進学するなど、大学編入しなくても良いルートもありますので、私の頃とは直接比較できないと思います。

進学しようとはどこかで思っていたのですが、決定的だったのが高専4年生の夏休みの時のことです。1週間ほど企業にインターンに行ったのですが、そこで私にとってショックな出来事がありました。その人たちが悪いわけではないのですが、お茶汲みだったりを「女性だからこれね」と押し付けられた感じがありました。

そして、「これは就職したくないな」と思い、大学に行こうと思いました。その時の一緒にやっていただいた方はとても親切で、意地悪されたというわけではないのですが、悪気なく、女の子だからお茶汲みしてねというような世界が当時はまだありました。

学生生活では感じたことのなかった性差別を企業での扱いに感じたことがショックでした。それが大学に行こうと思った理由の一つです。もう一つが、京大出身の高専の先生に急に、京大を受けたらどうかと言われたんです。それまで誰もその高専から京大を受けたことがなかったんです。先輩が言っているところに大体行くので、岡山大学などが多かったです。

私もそういうところに行くつもりでいたんですけど、京大受けたらどうかと言われ、「部活も辞めてとにかく勉強しろ」と結構強引だったんです。始めはとても反発したんですけど、言っていること自体は間違っていないですし、誰もやっていないので失敗しても恥ずかしくないかなと、「誰もやってないならやってみよう」というような変な高揚感もありました。

結果は合格で、それ以来、やったらできるという自信がつきました。そこが一つのターニングポイントで、「人生の方向性が変わったな」と感じています。

研究結果が上手く出ずに博士課程へ

—その後、研究者の道に一直線だったのでしょうか。京大まで行けば色々な選択肢があるわけじゃないですか。

毛利先生:そんなことはないです。編入した当時は、「とりあえず大学を出ればいいや」と、2年間だけ行って卒業すれば良いと考えていました。高専の先生になりたかったのですが、その当時は高専の先生は博士号を持っていなくてもよかったんです。私の高専の担当教員は学部を出て自分で論文を書いて博士号を取った人だったんです。なので、私も学部卒で良いのだと思い、京大の学部を出れば高専の先生になれると軽めに思っていました。

入ってみたら、「京大の工学部は6年一貫教育だ」って言うんです。「院に行くのは当たり前です」と言われて、私も流されて修士まではとりあえず行きました。しかし、研究が全くうまくいかなかったんです。

テーマによってデータが出やすいテーマと出にくいテーマがあり、私のしていたテーマはデータが出にくかったんです。修士の1年の秋に就活を始めるため、ほとんどの人がデータを持って「私はこういうことをしています」と就活をします。しかし、その時にデータがなく困るなと思い、色々考えてもう少しやりたいので博士課程に行きますと言ってしまいました。

それ以前にも「博士課程に行きませんか?」と言われていたのですが、先生は私が博士課程にいくと言うのを待っていたみたいでした。その後、テーマが変わり、急にデータが出始めました(笑)。

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↑実験と解析をしている様子。

学会がある度に自分を売り込んだ

4回生と修士1年で周りがデータを出して学会発表できている時に、データが出ないのは相当苦しかったです。博士課程では順調にデータも出ました。就活は学会の懇親会に行って「職無いですか?」と色々な先生に言って回っていました。ドクターの3年生の時に「こんなのあるけどどう?」と言ってくださる方がいて、今のところに決まりました。

博士課程に行った学生の就活の中では本当に苦労してないのであまり人には言えないです。言っても参考にならないぐらい運がいいです。得意じゃないんですけど、言わないと来ないので、ずっと仕事探していると言っていました。

修士の学生だと企業の募集があるのですが、博士は全然ないので、お金を払って学会の懇親会に行っていました。先生と一緒にいると「この人誰?」と皆さん聞いてくれるので、「博士課程で就職したいのですが、どこか大学ないですか?」と言っていました。

理系は男性の人数が多く、女性の人数は少ないので覚えてもらいやすかったのかなと思います。先生と一緒に回って自分を売り込むのは、男性には少しやりにくいと思います。キャラクターによりますね。

博士課程に行く方は自分を売り込むことが苦手という方が多いと思います。おとなしく真面目で自分でアピールしていくタイプではない方が多いです。先生が面倒見のいい人だったらいいですけど、そうではないと就職はやっぱり厳しいです。

でも、学会の懇親会だけで決まったとは思ってないです。学会で質問などをすることが大事かなと後で思いました。会場の方から声がかかったんです。

—学会はいつも積極的に臨んでいたのでしょうか。

毛利先生:私はたくさん質問するというわけではないですけど、学会の懇親会には博士課程1年の時から先生と一緒に回ってうろうろしていました。

京大は3年で博士号を取らせてくれないことも多いんです。「4年、5年かかることが結構ある」と聞きました。けれど私は、博士号を取ることが決まる前に就職が決まったんです。なので、先生が焦って早く取らせようとしてくれました。そのため、3年かからずにとりました。ただ、その後に谷が来るんです。

出産・育児と先の見えなかった10年間

—谷とは、今まで以上に大変だったということでしょうか。

毛利先生:多分そうです。助教として就職して2年ほどで結婚して、3年目くらいには子どもが生まれたんです。子どもが生まれたらあまり働くことが出来ないので、急に人の態度が変わったりするんです。ここで細かくお話はできないですけど、研究室に居りづらい状況になりました。

居りづらい状況になったんですけど、産休を取ったりしながらも、とにかく辞めなかったんです。その状況で2人目も生んだんです。2人目を生んだ時、上司が異動されていなくなったんです。

でも、上司がいない助教も困るんです。その当時、教授の先生と助教がペアで、教授がいなかったら助教って浮くんです。居場所がなくてどうしようか困っていた時、東京から冒頭のナノシートの研究をしている新しい先生が来られて、その先生と一緒に研究をすることになりました。

今まで有機の高分子をやっていたんですけど、全然わからない無機の先生のところ行くことになって、学生と一緒に頑張っていました。新しく立ち上げた研究室だったので、学生も新しい子たちで、「とにかく学生と1からやろう」とやることができたのは嬉しかったです。

ただ、いずれは独立しないといけないなという気持ちはずっとありました。しかし、そこから独立までは10年ほどかかりました。

個人的な研究面では停滞していたんですけど、生活面では結構忙しく充実していました。よく生きてたなと思います。なので、その10年間は先が見えないという意味で、仕事面では楽しくはなく、ギリギリ生きてきました。10年経ってやっと0地点に復帰しました。

気にかけてくれていた方の期待に応えたい

—この10年間の乗り越え方はありましたででしょうか。

毛利先生:「その日を無事に過ごす」、「子どもを連れて帰るのを忘れない」など、他のことが考えられないほど、生きることで精一杯でした。子どもを保育園に送ってから職場に行くんですけど、送り届けずに後ろに乗せたまま大学に行ったことが何度もありました。

車に乗せたままだったら、一歩間違えたら、、、と思うこともありました。車じゃなくて自転車だったので気付きました。

2018年に少し余裕ができた頃、ようやく先のことを考えないといけないなと思い始めました。

そう思い始めたのは、色々な先生方が心配してくださったことが影響していると思います。恩師というわけではないけれど気にかけてくれている人がいるということをたびたび感じることがありました。

すごく嬉しくて、これ以上心配させたくないなと思ったことがきっかけとなりました。自発的に論文を書こうと思っただけではなく、周りから気にかけてますよというシグナルを感じとっていました。

—ただ単に一回会って挨拶しただけでは、気にかけるぐらいの親密度にならないと思うのですが、この気にかけてくださる人との繋がり方というのはどういうものでしょうか。

毛利先生:学会で会って話したことがあるレベルなのですが、何年か前にその方の研究が気になり見に行かせていただきお話ししたことを、印象的だったのかその後も覚えていてくれました。あるタイミングで心に残る出会いがたまたまあったということです。

そういった意味でも私はラッキーだなと感じています。

—論文を書き始めてから准教授までは早かったんですか?どんな感じだったのでしょうか。

まずは、昔のデータで論文を書き始めました。「何年間に何本ならできそう」と逆算して、瞬間最大風速みたいに急速に書きました。しかし、論文を書いてからも准教授に決まるまでは時間がかかり、昨年やっとなることができました。

自分の気持ちに正直に、思ったら行動する

—起業している方や独立している方などビジネスの世界でも「なぜ成功したの?」と聞くと「ラッキーで」と答えられることが多いです。みんなが続けられず辞めてしまうようなことを、愚直に続けている人がくじを引くというか、一生に数回しかないタイミングをものにできたりされますよね。

日頃から意識していることや大切にしていることはありますでしょうか。

毛利先生:わがままなんですけど、自分の気持ちを大切にしています。「この人いいな、これいいな」と思ったらどう見えているかは考えずに早いタイミングで掴みに行くようにしています。2018年にも大学の中で学生を引率してカナダに行くというラッキーなことがありました。

当時はまだ准教授でなく、引率者は准教授以上の人を対象としていたと思うのですが、カナダにただただ行きたいと思って、行きたいと言ったら行くことができました。次の年でもいいと思ったんですけど、その時行きたいと言っていなかったら、結局次の年はそのチャンスがなく、その次はコロナでありませんでした。

あの時行っていなかったら3年くらい行くことができていないです。「これいい、行きたい、やりたいと思ったら手を挙げる、発信する」ことは大事だと思います。外から見たら立場もわきまえず何やっているのと思う人もいると思います。結果的にとても楽しかったし、人間関係も築け、その後の影響も大きいので、よかったなと思っています。

京大のこともそうなんですけど、振り返ると繰り返しているなと思います。誰もやっていないことをやるのはいいなと思ったので、自分がいいなと思うことは大事にしたいなと思います。

異分野の方との共同研究を進めたい

—これから挑戦したいこと、若手研究者に一言お願いします。

毛利先生:少し始めている部分もあるのですが、異分野の研究者の方と一緒に研究したいと思っています。世界の動向を見ていると自分で作りましたというだけでは論文になりにくくなっています。作って、測って、機能性も出して等、色々な工程があるので、1人だと厳しいですし、こちらの分野だと当たり前だけど、他の分野では知らない等、それぞれの知っていることも違うので、組み合わせると新しい研究もできるのではないかなと思っています。

同年代の先生も増えてきて、気兼ねなく率直に話すことができ、今も電気科の先生とやっています。これからもやっていきたいですし、独立したからこそできることでよかったなと思います。

—先生と先生をつなげるマッチングプラットフォームのようなものはあるのでしょうか。

毛利先生:あると思うんですけど、研究者って癖の強い方も多いですし、個人的に知っていてこの人だったら話せるなどの人間的な相性が長く研究をやっていく上で大切だと思います。

元々知っている人、会ったことある人などの情報は大切なんです。プロだからこの人でいいでしょと言われてもうまくいかないかもしれないので、お互いに「ここはわかる、これはわからない」と率直に言うことができる間柄が大事です。

企業でやる場合は大人をたくさん巻き込むと思うんですけど、研究者の場合は大人2人だけで残りは学生だったりするので、2人の相性が良くないと厳しいと思います。ここは企業のチーム作りと違う点かなと思います。

外国語は異なる文化や価値観を学ぶもの

若手に一言は、先程と重なりますが、自分の気持ちは大事に、やりたいことはやりたいと発信することがいいと思います。先生に言われたことを何でもするという姿勢より、私はこれをやりたい、これならできるという姿勢が意外とうまくいくと思います。また、外国語をは勉強するといいと思います。

翻訳アプリで何とかなるという学生が増えてきていますが、外国語を学ぶということは言葉を変換できるだけでなく、別の価値観を学ぶことで、大事なことだと思います。翻訳アプリで技術的な面は解決されると思いますが、外国語を勉強することには海外の文化を学ぶ意味合いがありますし、言葉の裏に歴史や文化が隠されている場合など、そこまで感じ取るには尚更必要だと思います。

私は全然英語が得意ではなかったのですが、長々とやっているといつのまにか聞こえるようになって、世界も広がります。翻訳ソフトがあるからやらなくていいというようにはならないでほしいと思います。

最後になってしまいましたが、なんとかここまで研究を続けてくることができたのは、家族(特に夫)の協力のおかげだと思っています。一番に支えてくれている家族への感謝の気持ちは忘れないようにしたいです。


毛利先生ありがとうございました。

キラキラした部分だけじゃない、先輩研究者の皆様の不安だったこと、悩んだこと、どうやって乗り越えたかをどんどん発信していきます。
次回もお楽しみにしていてください。


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