見出し画像

小倉栄嗣と文華堂と金文会と

戦前から戦後にかけて宮崎県の郷土出版文化に寄与した小倉栄嗣と文華堂について、下記の記事をきっかけに再評価したいと考えている。

これまで様々な文献の奥付で目にしておきながら、この人物について振り返ることがなかったので基本的情報を整理しておく。

『三州業界人物大観』帝国興信所鹿児島支所、昭和5年

資料としては、昭和6年(1931)の『日本出版大観』(出版タイムス社)に個人情報が記載されているが、国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。

文書名日本出版大観digidepo_1835405_PDF (2)
『日本出版大観』昭和6年
『日向商工大観』昭和7年
出版タイムス社編『現代出版業大鑑』現代出版業大鑑刊行会、昭和10年
『宮崎県商工人名録』昭和12年版
荒武直文『幻の町』鉱脈社

金文会については記念誌が複数ある。
・金文会六十周年記念実行委員会編『一筋の長い道 明治大正昭和三代の金文会史』金文会、昭和49年(1974)
・金文会編『金文会七十年誌』金文会、昭和58年(1983)
・金文会百周年実行委員会編『金文会百年史 : 一筋の長い道』金文会、平成26年(2014)
など金文会関連の図書が複数あるが、手元にある60周年記念のものを参考にする。ちなみに文中に小倉秀嗣との表記が出てくるが、内容から類推して小倉栄嗣のことと判断した。

・小倉栄嗣(旧姓瓜生)
・明治35年6月10日、福岡県朝倉郡志波村生まれ
・大正6年4月18日、金文堂入店。金文会第1期生的な存在(p52)
・金文会の中心となったのは明治入店組の六人組で、小倉は含まれていなかった。規定では10年間勤務して独立ができる仕組みとなっており、次々と独立していった。金文堂に勤務し、独立したのに、会員としての条件が満たされなかったため、外野住まいをした人たちがおり、その一人が小倉栄嗣であった。大正時代の独立は、金文会への未入会を含め12人であった。
・大正14年7月、宮崎市に文華堂を開店。
・大正14年10月9日、坂口松枝の媒酌で、瓜生栄嗣は小倉家の養子となり、鹿児島で結婚式を挙げる。
・昭和5年3月、木村盆水『宮崎県の地質鉱物』を文華堂書店から刊行。これが管見のところ、出版の第1号ではないか。奥付を見ると、出版・発行は文華堂書店で、熊本の印刷所を使っている。

・昭和6年5月、川添重広『日本最初の洋行者十三歳の少年大使 伊東満所』を刊行。印刷は宮崎市の日高印刷所で行い、出版・発行を文華堂書店が行っている。

・昭和6年9月30日、『日向郷土志資料』第4輯を文華堂書店から刊行。この後、日野巌と組んで、昭和14年の第20輯まで刊行している。
・昭和7年、日向郷土会 編『日向郷土史年表』を文華堂書店から刊行。印刷は中村町の外山印刷所である。

・昭和7年11月にひもろぎ書店から刊行された『宮崎県神社誌』には出版目録を広告として掲載している。

・昭和8年3月、川添重広『日向正史郷土の光』を文華堂から刊行。
・昭和8年、鈴木健一郎『日向の伝説』を文華堂から、日向郷土会編『霊峰霧島山』を文華堂書店から刊行。

・昭和9年、松尾宇一『日向教学史談』、三好利八『神代乃日向国』を文華堂書店から刊行。
・昭和10年10月、日高重孝『日向の研究 巻1』を文華堂から刊行。
・昭和11年7月、日高重孝『日向の山彦』を文華堂書店から刊行。
・昭和14年1月12日、金文堂創業七十七年記念式が開会され、組織が再編され、大金文会が結成されたが、従来の金文会も残った。大金文会発足の翌日、1月13日に山本芳太と小倉栄嗣の2名が金文会正式会員として入会が承認され、2月8日、幹事会の場で二人は今後金文会のために砕身の協力を惜しまぬことを誓った。
・昭和17年5月28日、金文会臨時総会開催、新しく幹事に小倉栄嗣ら5名が選出された。
・終戦後、昭和22年金文会の東京連絡所が設立され、中央の出版社との取引が容易になった。この時期の金文会名簿にも小倉の名前は掲載されている。
・昭和23年7月に金文堂書籍株式会社が設立され、小倉も取締役に名を連ねた。

後日、追記します

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?