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大正・昭和初期の地方における民俗研究会と書店―宮崎県と鹿児島県を中

日本民俗学会第74回年会発表レジュメ   令和4年10月2日(日)

大正・昭和初期の地方における民俗研究会と書店
―宮崎県と鹿児島県を中心に―

一、地域雑誌と日本民俗学史

○佐藤健二「近代日本民俗学史の構築について/覚書」『国立歴史民俗博物館研究報告 第165 集』2011-3
私は「雑誌刊行史」や「団体組織史」、あるいはさまざまな地方に生成し消滅した雑誌や研究団体の資料に、もっと学史研究は深く踏みこむべきだったのではないかと思う。(中略)二号で力尽きてしまった雑誌であっても、その向こう側にそれを支える書き手や読み手がいたからである。そのネットワークが「かつ消え、かつ結びて」、日本民俗学史の基底を作り上げていたことも、事実なのである。そこにおける「民俗の認識」の進化や変容や振れ幅に近づこうとするならば、やはり手がかりとなる記録が残る場は、会の活動が埋め込まれた雑誌であろう。
「日本民俗学史」の論点について、二点だけメモしておこう。第一は、それぞれの地域における「民俗学」の、いわば着床の仕方が異なることである。(中略)昭和初年の「郷土教育」の運動は、さまざまな意味で「郷土研究」の追い風となったことは間違いなく、地方で作成された各種の「郷土読本」に関わった民俗の学究も少なくなかった。その時期の盛り上がりが、昭和10年の柳田国男の還暦記念民俗学講習会とも重なり、雑誌『民間伝承』の発行ともつながっていくために、ここがひとつの画期のように見えてしまうのは無理もない状況である。

【表1 大正・昭和初期の主な民俗関係雑誌】
創刊 雑誌名 発行、発行者 地方執筆者
大正2年3月~ 郷土研究 郷土研究社、柳田国男
大正2年5月~ 民俗 石橋臥波
大正8年1月~ 民族と歴史 日本学術普及会、喜田貞吉 日野
大正14年11月~ 民族 金田一・折口・柳田 日野
昭和3年1月~ 旅と伝説 三元社、萩原正徳 楢木
昭和3年1月~ 民俗芸術 民俗芸術の会、小寺融吉・北野博美 楢木
昭和3年2月~ 民俗研究(史談と民俗) 日本民俗研究会(本山桂川)
昭和3年?~ 土の香 土俗趣味社、加賀紫水 日野
昭和4年7月~ 民俗学 民俗学会、折口信夫他 楢木
昭和05年1 九州民俗学 九州民俗学会、三松荘一
昭和6年9月~ 方言 春陽堂、沢野武馬 日野
昭和7年1月~ 俚俗と民譚 中道等
昭和7年3月~ 郷土風景 郷土風景社→郷土芸術、郷土芸術社 日野
昭和7年4月~ ドルメン 岡書院、岡村千秋
昭和10年~ 民間伝承 民間伝承の会 楢木
参考文献:佐藤健二「近代日本民俗学史の構築について/覚書」『国立歴史民俗博物館研究報告165』2011年3月

二、宮崎県における出版状況

1、文華堂書店

小倉栄嗣(旧姓瓜生) 明治35年6月10日、福岡県朝倉郡志波村生まれ
大正6年4月18日、金文堂入店。金文会第1期生的な存在
金文会の中心となったのは明治入店組の六人組で、小倉は含まれていなかった。規定では10年間勤務して独立ができる仕組みとなっており、次々と独立していった。金文堂に勤務し、独立したのに、会員としての条件が満たされなかったため、外野住まいをした人たちがおり、その一人が小倉栄嗣であった。大正時代の独立は、金文会への未入会を含め12人であった。(『一筋の長い道 明治大正昭和三代の金文会史』金文会、昭和49年)
大正14年7月、宮崎市に文華堂を開店。大正14年10月9日、坂口松枝の媒酌で、瓜生栄嗣は小倉家の養子となり、鹿児島で結婚式を挙げる。昭和5年、木村盆水『宮崎県の地質鉱物』を文華堂から発行。

2、宮崎県における歴史民俗研究者

若山 甲蔵   1868 (明治元) ― 1945(昭和20)
日高 重孝   1884 (明治17) ― 1980(昭和55)
安田 尚義   1884 (明治17) ― 1974(昭和49)
園山 民平   1887 (明治20) ― 1955(昭和30)
小手川 善次郎1889 (明治22) ― 1957(昭和32)
小嶋 政一郎  1893 (明治26) ― 1977(昭和52)
日野 巌     1898 (明治31) ― 1985(昭和60)
石川 恒太郎  1900 (明治33) ― 1990(平成2)
丸山 学    1904 (明治37) ―1970(昭和45)
楢木 範行   1904 (明治37) ― 1938(昭和13)

(宮崎大学みやざき伝承プラットフォーム・研究者アーカイブス)

3、日野巌

日野家と賀来飛霞は遠縁。父、吉甫は東京山林学校を卒業後、帝室林野局技師。北海道へ赴任
明治31年、北海道生まれ。青森の中学校卒業後、大正6年9月、岡山県の第六高等学校入学。
大正9年9月、東京帝国大学農学部農学科入学。大正12年4月九州帝国大学農学部助手
大正15年『趣味研究 動物妖怪譚』養賢堂。大正6年から寄稿、約10年で書籍化。
※柳田国男と日野巌の繋がり 大正3年『植物妖異考』の白井光太郎が恩師。
野村益三の父は、野村靖の娘初子は柳田国男の弟、松岡静雄に嫁いでいる。
大正15年3月、宮崎高等農林学校講師。昭和3年9月、教授。

4、日向郷土志資料

昭和6年(1931)1月、『日向 郷土志資料』は当初謄写版、日向郷土会(代表日野巌)により創刊
宮崎県の『郷土志資料』には、あの地方の妖怪変化の目録が、先々月から連載せられている。ばけ物はもちろんいたって古い世相の一つではあるが、それを観ようとする態度だけがこの頃やっとのことで新しくなり始めたのである。(柳田国男『妖怪談義』)

【表2 日向郷土志資料】
発行年月 タイトル 執筆者(日野巌、青葉凉二は除く)
昭和6年1月 創刊輯
松本友記、田原重義、金丸豪
昭和6年不明 第2輯
加藤富司雄、金丸豪・遠藤茂
昭和6年不明 第3輯
松本友記、桂又三郎、加藤富司雄、山之城民平、湯浅啓温、能田太郎、小川新一、遠藤茂
昭和6年9月 第4輯
小川新一、東條操、中道等、山之城民平、木本直、松本友記、河井田政吉、
中山太郎、松本友記、田原重義、遠藤茂、能田太郎、大槻憲二
昭和7年1月 第5輯
山之城民平、河井田政吉、瀬之口傳九郎、山之城民平、樅井甫、小川新一、
鷲見桃逸、清水武彦、松本友記、星野厳夫、遠藤茂
昭和7年6月 第6輯
瀬之口傳九郎、日高次吉、日高徳太郎、草野實、三好利八、小川新一、松本友記、四本正秋、河田晴夫、古村虎雄、遠藤茂
昭和7年8月 再版 第2・3輯
昭和7年10月 第7輯
永田吉太郎、ケンベル、谷口龍太郎、四本正秋、松本友記
昭和8年1月 第8・9合輯 霊峰霧島山 特集
中島悦次、河井田政吉、高千穂太郎、樅井甫、瀬之口伝九郎、草野実、木村益水、鷹野周道、松本友記、宮沢文吾、遠藤茂、中島茂・四本正秋、重松義則、小林瑛
昭和8年3月 第10輯再版 創刊輯
瀬之口傳九郎、濱田隆一、遠山渫雄、四本正秋、桐山英則、後藤弘
昭和8年4月 第11・12輯 日向の青島特集
長友千代太郎、中島悦次、瀬之口傳九郎、樅井甫、高千穂太郎、樅井甫、木村益水、宮澤文吾、井上繁美、遠藤茂、中島茂・四本正秋・大賀勉、日野美緒子、竹井きぬ子、永野常助
昭和8年10月 第13輯
松本友記、上田強、能田太郎、遠藤茂、山之城民平、河田晴夫
昭和9年5月 第14輯
松本友記、河田晴夫、能田太郎、遠藤茂
昭和10年2月 第15輯
日高醇、河田晴夫、四本正秋、鬼塚厚、兒玉寿太郎、遠藤茂・伊地知重基
昭和13年4月 第16・17合輯 佐土原・妻・西都原 特集
樅井甫、日高篤重、三好利八、鬼塚厚、日高醇、松本友記、三好利八、黒木正美、兒玉陵峯、日高次吉
昭和14年9月 第18~20合輯 『日向郷土読本』

5、日向郷土志資料と文華堂

同年9月の第4輯から小倉栄嗣の文華堂で発行。
県内外の出版目録が掲載。民俗学、郷土研究、郷土科学、郷土、民俗芸術、旅と伝説

郷土研究! すべての方面に於て凄まじい勢で学界を風靡してゐます。この趨勢と風潮に後れぬやうに!皆様の文華堂はあらゆる資料を蒐めて御用命を御待ちしてゐます

※第2・3輯の初版は所在不明である。昭和8年2月、創刊輯再刊「再版のことば」

本誌の印刷発行を引き受けて呉れた文華堂主人の好意を感謝する。宮崎県のことを思へばこそ、私も小誌を発行したのであるが、文華堂主人も亦その意味で利害を超越して引き受けられたものと思ふ。
昭和14年に第18~20輯となる『日向郷土読本』の刊行を最後に廃刊となる。
 日向郷土読本を以て、一先づ雑誌「日向」を廃刊したいと思ふ。明年は紀元二千六百年であり、諸事すべて一新の気運である。「日向」も昭和六年一月創刊以来、既に八年を経過した。その間、日向の文化に多少とも貢献し得たことを喜んでいるが、この頃は少しく疲れが見えた。この際潔く廃刊したいと思ふ。小倉文華堂主人が経済的にも精神的にも八年余の長い間「日向」を育んで下さったことを読者とともに感謝せねばならない。

6、日向民俗学会

昭和29年(1954)3月5日、日向民俗学会発足、田中熊雄が会長となる。
翌年1月『日向民俗 狩猟特集』創刊号。

三、鹿児島県における出版状況

1、金海堂

坂口松枝。明治26年4月3日福岡県二川村生。16歳の春、久留米金文堂本展に入り、在店15年、大正10年(1921)11月に独立して、鹿児島市に金海堂を開店。その凄い手腕、猪突的な果敢な行動は鹿児島市同業者が畏怖するところとなった。創業十年で書籍及び中等教科書、吉田書展に次ぐ、第二位の書店となる。

2、鹿児島民俗研究会

昭和12年4月15日、朝日新聞社の野間吉夫が代表となった鹿児島民俗研究会による『はやと』は創刊号から金海堂が発行所となり、研究会の住所も金海堂内となっている。
『民間伝承』の影響を受けて発足し、巻頭を柳田国男が飾り、会員の宮武省三、楢木範行、岩倉市郎らはすでに全国的に活躍していた。

柳田国男「鹿児島県と民俗研究」
鹿児島県は日本に於ける民俗研究の為に、極めて重要な地域であつて、我々は深い興味と関心とを抱いてゐる。 明治以前此地方が外部との交通に乏しく、外来者が少く、また最も封鎖的であつて、日本文化内に極めて独自性の強い一文化圏を形成してゐた。此所とかなり似た状況にあつたのは土佐であるが、薩隅は中央部を去る事遠く、警戒的には更に強く、然も領主は古く且つ統一結合力に優つて居り、文化の独立性が甚だしかつたのである。 我々は薩隅を一単位として民俗の研究をする可能と必要を認めるものである。此地は謂はゞ日本の一縮図であり、日本民俗学の一つの実験台である。全日本を一単位とした民間伝承の綜合が次第に進み、その体系が樹立されつゝある今日、此方法を此一地域に適用してまた一つの体系に纏めあげる可能性が充分にあるといへやう。またかゝる努力と協働とは、一方日本民俗学を成長せしむる為に大きな役割を果すことになる。薩隅の同志者達は極めて恵まれた地位を占め、且つ其使命は重大であると言はなければならない。
 なほ此地に関する古き文書は総統残されてゐる。然し例へば「薩藩旧伝集」や「倭文麻環」等にしても、主人公は士族であつて、常民の生活を語ることが乏しい。他国人の手になる「薩摩風土記」「西遊記」「西遊雑記」「笈埃随筆」等にしても、夫々の著の接触したる人間が文字を知る人間が多かつた為に、常民の生活を反映することが乏しい。今日旧来の民間伝承の多くが急速に消え失せつゝある時、鹿児島県の民俗研究の一日も早く進捗することを望むのは、独り我々のみではない。
有形文化の一つたる民具の蒐集も一手段として考へられるが、眼に見えぬ、形を後に残さぬ無形の文化の観察、採集、記述の重要性は一層大切である。此地に残る多くの不文の記録が、今日を逸しては、外より行く調査者には勿論、郷土の研究者達にも久遠に知る由の無くなる時が近いのである。

(『はやと』第1号)


第2号から民間伝承の会発行図書等の出版広告が「右の図書は金海堂書店にて取次致します」と掲載される。
翌年4月20日、雑誌名を『はやひと』と変え、第2巻第1号として刊行する。しかし、楢木の逝去し、主要会員が鹿児島を離れるなどによって、13年6月の第2巻第3号を最後に短期間で廃刊となる。

【表3 はやと・はやひと】
発行年月 タイトル 執筆者
昭和12年4月 はやと 1
柳田国男、宮武省三、野間吉夫、楢木範行、築地健吉、内藤喬、岩倉市郎、西郷晋次、宮田吉憲、吉原静彦、橋口初枝、町田二次
昭和12年6月 はやと 2
児玉幸多、楢木範行、永井竜一、野間吉夫、西郷晋次、築地健吉、安藤佳翠、丸山義武、多々良魚吉、川畑清香、町田一二、K生、基道弘、中島馨、平田一郎、栄繁男
昭和12年8月 はやと 3
多々良魚吉、児玉幸多、楢木範行、中島馨、野間吉夫、古荘たつ子、町田二次、基道弘、栄繁男、野村伝四、宮武省三、眇魚洞閑人、川那部澄
昭和12年10月 はやと 4
大間知篤三、楢木範行、野間吉夫、多々良魚吉、中島馨、川畑清香、基道弘、浜崎秀吉、眇魚洞閑人、児玉幸多
昭和12年12月 はやと 5(未確認)
野間吉夫、楢木範行、中島馨、多々良魚吉、武富美江、眇魚洞閑人、児玉幸多
昭和13年2月 はやと 6
岩倉市郎、楢木範行、山村左近太郎、基道弘、野間吉夫、中島馨、川崎初枝、多々良魚吉、眇魚洞閑人、児玉幸多
昭和13年4月 はやひと 2-1
野間吉夫、野村伝四、基道弘、野田千尋、川崎初枝、楢木範行、宇都宮新太郎
昭和13年6月 はやひと 2-2(未確認)
多々良魚吉、楢木範行、野間吉夫、田中ミキ、長浜操、宇都宮新太郎、町田二次、川崎初枝、築地健吉、基道弘、谷山五郎、
昭和13年6月 はやひと 2-3(未確認)
基道弘、中島馨・今田喜一、永井竜一、鶴田鶴八、多々良魚吉、野間吉夫、

3、柳田国男の鹿児島来訪

<4月27日>楢木範行らの出迎えを受け、雨の中、城山に登る。岩崎谷荘に泊まる。
<4月28日>鹿児島図書館、尚古集成館、島津別邸など
  女が物を運ぶ時頭に載せる風習は奥に面白い研究材料だつた
<4月29日>山川港、枚聞神社、池田湖、長崎鼻で写真撮影。
<4月30日>枕崎、坊津。久志、伊集院を通り、鹿児島に戻り、岩崎谷荘に泊まる。
<5月1日>為正、平山、大間知らを桜島見学に向かわせ、宿に残って講演の準備。
  講演に楢木茂吉、範行親子も聞きにくるが、夜に直接会えず。
<5月2日>日当山、清水村、酒宴の席に招かれたあと、霧島から林田温泉に向かう。
<5月3日>霧島から宮崎に回り、青島に泊まる。
<5月4日>宮崎から汽車で大分に向かい、大分から蕾丸に乗船する。

4、民具展示会

主催:成城民俗研究会
期間:昭和11年10月22日~
会場:山形屋6階
陳列民具:染色、服物、灯火用具、山袴漁具、猟具、労働用具、農具、食器、千両箱、火打角、油皿、しそく、蝋燭立、カンテラ、ランプ、行炉、たもと提灯、農具、草かき、草包丁、藁切包丁、玩具、ヒキ駒、ギツチヨネン、遊戯道具、鉄砲など約300点

5、戦後の民俗学会

昭和25年、築地健吉や村田煕等が新たな鹿児島民俗学会を発足、『鹿児島民俗 第1号』を創刊するが、中断。
昭和29年1月、『鹿児島民俗 NO.1』創刊、村田煕が創刊。No.3~山下欣一、No.5~小野重朗・北見俊夫、
No.6~重久十郎、No.21~下野敏見。

四、文華堂と金海堂の共通点

この2県の出版社、文華堂と金海堂には共通点がある。久留米市にある書籍の取次(卸売)と小売りを手広く扱う菊竹金文堂に奉公、修業の末、独立している点である。菊竹金文堂に10年以上奉公した者は「暖簾分け」によって西日本各地へ多くの書店が独立していった。小倉は暖簾分けではないが、金文会とはその後も関わりを持ち続けた。さらに大正14年10月9日、坂口松枝の媒酌で、瓜生栄嗣は小倉家の養子となり、鹿児島で結婚式を挙げており、個人的にも関係を取り続けていた。

五、地域における民俗研究会と書店の関係について

以上のように、地域の書店の中には、小売りにとどまらず、出版に進出する書店があった。地域の民俗研究会が会報の発行を依頼し、その会報には、柳田国男をはじめとする全国的な出版物と地域の出版物の広告が掲載された。毎月、隔月などで発行される会報は少数頁ながらも即時性があり、最新の民俗情報が入手できる貴重な媒体であった。会報には、書評も掲載され、会員動向とともに、現代のSNSのような機能を持っていたと考えられる。

【宮崎県】

博物学的な日野巌が中心となり、宮崎高等農林学校など、歴史民俗のみならず、植物、動物、地質などの他分野、宮崎県内、県外の専門を集め、8年に渡って『日向郷土志資料』を編纂したが、日野巌の海外勤務を機に交流が少なくなり、継続が難しくなる。そのまま、太平洋戦争となり、雑誌の復刊は実現しなかった。そのまま日野が宮崎に戻ることはなかった。
戦後は、文華堂は自社の出版物が中心となり、昭和29年(1954)3月5日、日向民俗学会発足、田中熊雄が会長となる。翌年1月『日向民俗 狩猟特集』を謄写版で創刊。田中熊雄中心の民俗研究が続く。

【鹿児島県】

野間吉夫が中心となり、発足した鹿児島民俗研究会は、柳田との交流もあったが、わずか2年で解散。金海堂は出版からは遠のいていくこととなる。昭和29年1月、鶴丸高校教諭だった村田煕 が中心となり『鹿児島民俗 NO.1』を創刊。山下欣一、小野重朗、北見俊夫、下野敏見らが参加し、研究の幅が広がっていく。

六、今後の課題

雑誌の収集が困難。未だ入手できていない雑誌が少なくない。
※『日向郷土志資料』第2・3輯初版。『はやと』5号、『はやひと』2巻2号、2巻3号が未確認。
九州全体の同時代の民俗研究の状況把握

【参考文献】
佐藤健二「近代日本民俗学史の構築について/覚書」『国立歴史民俗博物館研究報告165』平成23年(2011)3月
金文会六十周年記念実行委員会編『一筋の長い道 明治大正昭和三代の金文会史』金文会、昭和49年(1974)
鹿児島民俗学会『鹿児島民俗 151 総目録』平成29年(2017)6月
※https://note.com/watsuko K.WATANABE において情報を発信している。

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