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ユングの共時律synchronicity、"意味深い偶然の一致"を知る心の深層 :老松克博氏の『法力とは何か -「今空海」という衝撃』を読む

ユング派の精神分析家である老松克博氏の著書、『法力とは何か』を読む。

法力とは何か。

法力という言葉をどう定義するか(法力という言葉を他のどの言葉に置き換えるか)という話は傍に置いていこう。

精神科医でありユング派の精神分析家でもある老松氏はこの本で、ある真言宗の大阿闍梨(文中ではX和尚と表記される)とその関係者の方々へのインタビューを行う。そしてそこで語られた言葉たちをカール・グスタフ・ユングの分析心理学の理論に照らし合わせて理解するというアプローチが取られる。

詳細はぜひ本書を手に取って読んでいただいた方がよいが、「X和尚」の「法力」にまつわる驚くべき(本書をよく読むと「驚くべき」ことでもないと言えるようになるのだが)逸話が紹介される。

例えば、今をさかのぼること数十年前の冷戦時代。当時のソビエト社会主義共和国連邦から一機の戦闘機が日本の函館空港に飛来し、パイロットが米国に亡命するという事件があった。ベレンコ中尉亡命事件である。

ベレンコ氏が操縦していた機体は当時、東西の軍事力の均衡を破るほどの恐るべき性能を備えているのではないか、と西側から目されていた最新鋭の戦闘機であった。西側は機密のベールで隠されたこの機体の情報を収集すべく奔走したらしいが、その実態を知ることはできなかった。そんな時、極東の西側の最前線である日本の北海道に、わざわざ向こうから飛んできてくれた、という事件である。

この事件と法力。一体何の関係があるのかと思われると思うが、なんと、このこのソ連のパイロットが操縦桿を握り、ソビエトと日本双方の防空監視をすり抜けて日本へ向けて飛行させているまさにその時、X和尚がこの機体を函館に呼び寄せるべく「鉤召(こうちょう)」と呼ばれる密教行法を行っていたというのである!

「与えられた時間は半年。その戦闘機を呼び寄せて捕まえるべく、宗祖の言葉を信じ、経典の智恵を信じ、自らの使命を信じ、人間に与えられている力を信じて、身口意の三密を加持し護摩を修した。」

老松克博『法力とは何か』p.26

冷戦時代の日本を、いや東西の緊張を瞬間的に一挙に高めた大事件に、真言密教の加持祈祷が関わっている。

”ちょっと待って!

「印を結び、真言を唱え、仏を観想しながら護摩を焚くこと」
と、
「ソ連のパイロットが操縦桿を握り日本へまっすぐ飛んでくること」
このふたつの出来事の間に因果関係などあるものか?!”

と思われる方も多いと思われる。

あるいは、

”いったいどういうメカニズムで、和尚の三密と護摩の火が、空間の隔たりを超えてソビエトのパイロットの心身に作用して、操縦桿を握らせたのか?!”

と思われる方もいらっしゃるだろう。

もっともな疑問である。この疑問に答えていくのが本書である。

メカニズムの解明を目指さない

法力の「メカニズム」について、老松氏は次のように書かれている。

「本書では[…]法力のメカニズムを解き明かすことは意図しておらず、こうすればこうなるといった類の内容は論じない。[…]メカニズムの解明を目指さないという姿勢は、じつは、私たちが扱おうとしている現象の本質と無関係ではない。このような姿勢をもってでなければ接近できない側面というものがあるのだ。」

老松克博『法力とは何か』p.33

非常に力強いメッセージである。

メカニズムの解明を目指さない。

そして、メカニズムの解明を目指さないことによってこそ見えてくる=接近可能になる智というものがある。すなわち、共時律に基づく智である。

因果律で説明できること、共時律で説明できること

上の一節に続けて、老松氏はさらに次のように書かれている。

「元来、メカニズムとは、機械的な仕組みを意味する。しかるに、こと法力に関して、その種の科学(自然科学)的な側面は通用しないだろう。[…]戦闘機の鉤召を通常の科学的な理屈で説明すること、言い換えれば因果律で解き明かすことなど、できるはずがない。因果性超えているからこそ、それは法力と呼ばれているのだ。」

老松克博『法力とは何か』p.33

老松氏が書かれているこの一節、「戦闘機の鉤召を通常の科学的な理屈で説明すること、言い換えれば因果律で解き明かすことなど、できるはずがない」ということを、まず押さえておこう。

ここで注目してほしいキーワードは「因果律」である。

因果律というのは、「先行するある事象(原因)影響によって、後続のある事象(結果)が発生する」ということである。

例えば「徹夜で飲酒した朝に一睡もせずとある国家試験を受験し不合格になる」という場合、徹夜の飲酒が原因で、試験不合格が結果である。アルコールと徹夜が脳神経に作用し朦朧としているので、試験問題を読んでも頭に入らないし、答えを考えようにもクラクラする。

こういうのと同列に、「加持祈祷が原因で、ソ連機の飛来が結果である」というようなことは言えない、という話である。

では、加持祈祷とソ連機の飛来の関連を、どのように理解し、意味付けたらよいのか?!

ここで出てくるのがユングによる共時性の概念である。

共時性ないし共時律(シンクロニシティ、synchronicity)とは、複数の事象のあいだの連関に関する原理の一つである。それとは別のもう一つの原理が因果性ないし因果律で、因果性と共時性は対立し合う。」

老松克博『法力とは何か』p.34

共時性は因果性と対立する「原理」である。

因果性(因果律)は、ある二つの事象、特に時間的、位置的に前後関係にある事象Aと事象Bを「原因」と「結果」という対立する二極のそれぞれに振り分けて、「事象Aが原因で、事象Bが結果です」というような記述をすることである。

事象A / 事象B
||     ||
原因 / 結果

つまり、上記のような四項関係を立てることができる、と考えるのが因果律である。今日の私たちは何かにつけて、二つの出来事を「因/果」の二極に振り分けることで「ものごとの意味を理解した」と考えがちである。というかそのように訓練されている。因/果の二項対立は、時間的な前/後の区別と、空間的な隣接関係に重ね合わされて、感覚的・前五識的な「確かさ」を強化される。

事象A / 事象B
||     ||
原因 / 結果
|
前 / 後
|
過去 / 現在

因果律は、猫が毛糸玉を蹴飛ばしたから(原因)、玉が転がり毛糸が伸びて絡まって部屋がメチャメチャになる(結果)、というような物理的な物体の移動のようなことを理解する上では非常に有効である。有効どころか、物体の移動を時間と距離の関数で記述することができたからこそ、未来のある時間における物体の位置を高確率で予測することができ、これによって科学技術が飛躍的に発展したのである。

共時律

このような因果律に対して、共時律というのは、因/果の二項対立を持ち込まない

「共時性は、原因や結果にまったく関心を向けない。ほぼ同時に生起した複数の事象のあいだに(非因果的な)連関があると見るための根拠となる。[…]もちろん、同時に起こったことなら何でもかんでも連関ありとするわけではない。そこで事象と事象とをつないでいるものは意味つまり、意味深い符合をもって諸事象間における確かな連関を認める原理を共時性と呼ぶ。意味深い符合を「ただの偶然」と考えてしまうのは、私たちがふだん因果性ばかりを偏重しているせいである。」

p.35

ある二つの事象が、「ほぼ同時に」、前後して生じた場合に、この二つの事象の間に「因/果」とは別の「連関がある」と考える。

それが共時律である。

例えばよくある「偶然の一致」というのがこれである。


”明け方の夢に、遠くに住み、何年も会っていない叔父さんが出てきたかと思ったら、その日の夜に、そのおじさんから電話がかかる”

"夫婦で誕生日が一緒"

といったことである。夢をみることと、おじさんが電話をかけてくることの間に、物理的な因果関係を探ることは難しい。

"因/果以外に、複数の前後する物事の関連を説明する(置き換えられる)原理などあるのか?!"

と思われるかもしれないが、まさに因/果以外の二項対立で、複数の事象の連関間を考えることができなくなってしまっていることこそ、現代の科学的技術的に高度化した人類の知性の盲点である。

私たちは法力のようなことについても、ついつい因/果で考えないと気が済まないようになっている。そこからしばしば次のようなことが起きる。

「ある現象が通常の因果律では説明できない場合、人はその宙ぶらりんの苦しさに耐えきれず、ついつい魔術的な力を想定して擬似的な因果論を振りかざしてしまう。科学的因果性とは似て非なる魔術的因果性である。」

老松克博『法力とは何か』p.36

ある二つの事象のペアを、因/果の二項対立に重ねて理解しようと思っても、ニュートン力学的な座標軸(時間と距離)に配置できない場合、私たちはしばしば、科学的な因果関係とは違う、別種の因果関係を想像してしまう。

新型ウイルスの感染拡大の「原因」や、謎の円安の「原因」や、三十社連続で不採用になることの「原因」や、最近どうも肩が凝ることの「原因」といったことは、ニュートン力学的な因果関係(猫が毛玉を転がせば…)では説明できず、説明されたとしてもよくわからないことがある。そこで因/果を求めてやまない現代人の精神は、原因と結果の二項対立の「原因」の位置に、「闇の組織による陰謀」とか「闇の総帥による最終決定」とか「オバケ的な何か」といったことを置いてみたくなってしまう。

私たちはなにごとでも因/果、原因/結果を考えるような癖がついているが、実際すっきりカンタンに因/果を説明できることばかりではない。「風が吹けば桶屋が儲かる」ようなことばかりである。

こうした時に、因/果とは別種の、事象の事象の確かな連関を認める原理があるとすれば、ちょっと詳しく話を聞いてみたい、と思いたくなるところである。

* *

それでは因/果の二項対立を一旦どこかに置いておくとして、代わりに別の何が、第一の事象と第二の事象をつなぐのだろうか

ここに登場するのが「意味」、「意味深い符合」である。

「意味深い」?!

さて、ここでおもしろいキーワードが出てきた。

意味、である。

意味
意味深い符合
老松氏はこれを「意味のうえでの符合」とも呼ぶ。

この記事を書いている私は「意味」についてあれこれ考えることが趣味である。勝手なことをして恐縮ながら、深層意味論・意味分節理論の観点から考えてみよう。

意味とは、下記の図に示すような構造を描くプロセスである(と仮に言ってみよう)。

この図についての説明は下記の記事に書いているので、ご興味ございましたら参考になさってください。

時間的な前/後関係(tとt+1)も、空間的位置的な前/後関係・順序関係(xとx+1)も、そして因/果関係も、いずれも二項のペア、二項の対立関係を最小単位としている。

t / t+1
x  / x+1
因 / 果
Δx / Δx+1

これらは上の図でいえば、青い丸で表現された「Δ項」である。
Δ項は、私たちの感覚に、経験的に、端的に「それ」として他からあらかじめ区別され済みであるという顔をして登場するモノたちである。

Δ項は必ず、対立する二つのΔのうちのどちらか一方の位置に生じているのだが、感覚的経験的に私たちはそのことを忘れて(考えずに)、端的にあるΔが存在することにして話を始めることができる。

原因は結果に対する非-結果である限りで原因なのだが、そういうことを言わずに、端的に、ポンと「原因です。これは。」などと言うことができる。

そういうΔ項たちを、ずらりと一列に線形に配列していくことで、私たちの通常の言葉(Δ1はΔ2であり、Δ2はΔ3であり、Δ3はΔ4であり…)が何かを意味するということが実現する。

私たちは通常、言葉ということを、Δの線形配列の姿でのみ、扱っている。

ところが、このΔ線形配列の連鎖を可能にしているのが、上の図でいえば赤丸四つで表現されたβ項である。β項は、例えば上の図のβ1でいえば「Δ1でもなくΔ2でもない」というポジションである。

もし、Δ1が「因」、Δ2が「果」だとすれば、β1は「因でもなく、果でもない」ということになる。

あるいはもっとはっきり書き換えれば、Δ1が「因」で、Δ2が「非-因」であるとすれば、β1は「因でもなく、非-因でもない」ということになる。

ここで例えば、あるΔがそのΔであるのは、それが四つのβ項の関係(四つのβ項が、互いに異なるものでありながら、同時に互いに異ならないものでもある、相互に変換される関係)が動いているところで、任意の二つのβ項の間の位置に、いわば振動するβ項が描く波紋のパターンのようなものとして、生じているからである。

八項(八極)関係と、マンダラ

因でも果でも、前でも後でも、あらゆる個々のΔ項は、このβ四項とその間の位置をとるΔ四項からなる八項関係のうちの一つの項として、その姿を示現している。

弘法大師でいえば、ちょうど曼荼羅の中心がこの八項関係になっている。

またユングのマンダラにも、八項関係を見る事ができる。

C.G.ユング『赤の書』p.159

ユング自筆のマンダラは『赤の書』という本の美しい印刷で見る事ができる。この本はいろいろと驚異的というか、衝撃的であり、ぜひお手元に5,000円ある方は買っていただけると良いと思う。私はどこの何の回し者でもないが、とにかくおもしろいから!


話を戻そう。

意味すると言うことは、何かのΔ1と別のΔxに置き換え、言い換えて、関連づけて、「Δ1とは、Δxである」とすることである。ここでΔ1がΔ1であるのはそれが非-Δ1と区別されつつペアになっているからであり、ΔxがΔxであるのはそれが非-Δxと区別されつつペアになっているからである。

Δ1とは、Δxである
という具合に「意味する」ことができる時、そこには

Δ1 / 非-Δ1
||
Δx / Δx

という、二項対立関係をペアにした四項関係が組まれている、ということになる。

これを「意味する」とは、二項関係を重ね合わせることである、と言い換えてもいい。

そして思い出してもらいたいのは因/果もまた、このような二項関係のひとつであり、因/果の二項関係を、第一の事象と第二の事象の二項関係と重ね合わせることで、「第一の事象が原因であり、第二の事象が結果である」という”意味”を繰り出していたのであった。

* *

いま、因/果の二項関係にありとあらゆる他の二項関係を置き換えようとする因果律に支配された思考を脱するためには、因/果もまた、他のあらゆる二項対立関係と同じように、二重の四項関係、八項関係のなかのひとつの二項関係なのだということを念頭におくと良い。

その上で、「意味のうえでの符合」を直接扱おうと言うユングの共時律は、これはこれを書いている私の勝手な思いつきであるが、おそらく八項関係、二重の四項関係じたいを、自在に発生させたり、変容させたりすることに関わるのではないか?とみている。

因果律は、因/果の二項対立を絶対的な準拠のポイントに設定してしまうため、この二項対立自体を分節しているβ四項関係を見る事ができなくなってしまう

ここでまたもや空海である。

空海さんはその最も難解と言われる『吽字義』という著作の中で、この二重の四項関係、八項関係のアルゴリズムを解析しており、そこでわたしの図式でいうところβ項の位置を占める項として「一切諸法因不可得」を置かれている。

諸法というのは、あれこれの存在する事物、Δ二項関係の一方に区切り出される項たちであるが、そういった諸法、諸Δについて、その「因」を云々することは「不可得」であるという。

不可得、つまり得る事ができない。「因はこれですよ」「これが因なんですよ」などと、何かの項(Δ項)を持ってくるということは、本来できない。

因/果を云々できるのは、因/果のΔ二項対立を分節した「後」の話であり、ではこのようなΔ二項対立を分節することができるのはどうしてかと言えば、そこに四つのβ項、「それが何であるか」を二項対立の一方の極に言い換えて、そこにピン留めして固めることをしない「何かであるともないともいえない」四つのβ項が互いに分離したり結合したりまた分離したりする脈動から、その振動が描く振幅の最大値と最小値のようなこととして、あるΔ二項が仮にその値を取る。

* *

マンダラとして記述される「集合的無意識」

さて、マンダラといえばユングの集合的無意識である。

ユングは、私たちの「」を、仮に表層の意識と深層の無意識からなる構造として表現した。そして深層の無意識は個人的無意識と、集合的無意識に分けられる。

個人的無意識とは、個人が表層の意識から抑圧し、表層に上らないようにした思考やイメージである。

一方、集合的無意識は「非個人的、超個人的なことがらでできている」と老松氏は書かれている。

「時代や場所を問わず、また人種や文化を問わず、万人がはじめから共通に持って生まれてくる内容からなる無意識層である。」

老松克博『法力とは何か』p.106

人間の身体が、例えば統計的に四足歩行ではなく二足歩行をする者が多数であるというように、人類の「心」にもまた、多くの人間に共通する動き方の「典型的なパターン」のようなことがある(老松克博『法力とは何か』p.108)。

そこに個々人の個体としての成長のプロセスが覆い被さり、多様な文化的、時代的、言語的に異なった個人になる。

集合的無意識の動き方の「典型的なパターン」が間接的に現れたもののひとつが「神話」であり「マンダラ」である。神話については本noteのアカウントでは、この間、執拗にクロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を空海のマンダラと重ね合わせて精読しているが、ユングによる神話論として、例えば『変容の象徴』という本があり、マンダラについては先ほどの『赤の書』や、『黄金の華の秘密』などがある。

ユングはマンダラを、表層の意識深層の無意識とが、うまいぐあいに別々に分かれつつも、ひとつの全体として円満に結びついている状態を象徴するものと考えた。

ところで、マンダラであるということは、すなわち八項関係である

また勝手ながら、ユングの「心の構造」と、先ほどの八項関係の図とを無理やりくっつけて仮に説明してみる。

  • ユングの心の構造における表層の意識は、八項関係でいえば、図中の1.「重く冷たい鎖にみえる」と書いてあるΔ線形配列である。そこでは「Aが因でBが果である。この関係は絶対に揺るがない」式の”思考”が蔓延る。

  • ユングの心の構造における深層の意識のうち個人的無意識は、八項関係でいえば、図中1のβ四項の脈動である。

  • そして、ユングの心の構造における深層意識のうち集合的無意識は、この八項関係(二重の四項関係)そのものである。

ここに関係するのが、老松氏が集合的無意識と合わせて論じておられるユングによる「個性化」という考え方である。

セルフとの合一・個性化

ユングによる個性化とは、つぎのようなプロセスである。

「当初の未分化な混沌としての全体性から、意識が分離独立して確固たるものになったら今度は分化した意識と無意識の諸要素とを再び合一させて高次の全体性を実現させなければならない。この一連のプロセスを個性化と呼ぶ。」

老松克博『法力とは何か』p.119

私たち個々人の心は、まず生まれ落ちた時には、「未分化な混沌」から始まる。ベビーの心ではβ四項関係が脈動しているが、そこに基本的な感覚、触覚や、光の強弱、音の強弱、地球の重力の方向などの情報が生じ、前-五識による分節・分化が育てられる。そうしてβ四項関係とΔ四項関係がはっきり区別されるようになる。そのうちそこに言葉、音声の差異の体系が覆い被さり、Δ四項関係がさらにはっきりと固まっていくとともに、β四項関係の脈動もクリアになっていく。

そうして子どもから大人になるにつれ、言葉と言葉の言い換え関係がはっきりと際立っていくと、心はΔ線形配列に支配されるようになる。Δ自己とΔ他者がはっきりと区別され、自己に我分に執着し、他から「分離独立」した「Δ我」をがっちりと固めようとするようになる。

そしてふと、「遅かれ早かれ死ぬのに、自分は何にそんなに執着してきたのだろう?なんだか虚しいなあ・・」、などと思う時、私たちの心は、こだわってきたΔ線形配列を握りしめる手を緩めて、また無意識に、未分化な混沌のことを、β脈動を、思い出すことがある。もちろん、思い出さない人も現代人には多いが、うまくいくと、Δ線形配列から、β脈動に入り、そしてβ脈動を自在にするところから、自在にΔ線形配列を発生させることができるようになる。

これが個性化のプロセスである。

個性化のプロセスと「マンダラ」の関係について、老松氏は次のように書かれている。

「個性化のプロセスでも軸を保つことが欠かせない。自我の側には、しっかりと自身の立場を主張しながらセルフとの折衝を行う姿勢が求められる。[…]この折衝のなかで合一に達する直前、それまでの自我のあり方が揺らぎ、無意識に呑み込まれそうになるが、ユングは、そのときおのずから経験されることがある円や四角形を基調とした対称的な幾何学イメージを、東洋の曼荼羅になぞらえてマンダラと呼ぶ。重大な危機に瀕した自我の面前に、最終的な秩序としての全体性の象徴が現れ出るわけである。」

老松克博『法力とは何か』pp.121-122

老松氏はまた「個性化は個人による自分自身の神話の発見と言い換えることもできる」と書かれている。神話もまた、通常の言語のΔ線形配列をブリコラージュして、マンダラ的な八項関係(二重の四項関係)をシミュレートしたものである。

共時律、意味、象徴

マンダラの二重の四項関係として記述される私たちの心の構造。この中に共時律ものごとの連関を「意味」で結びつける原理もまたある。

鍵になるのは「象徴」である。

象徴とは、「ある何かが別の何かを象徴する」という関係であるが、例えば「月」が「愛」を象徴したり「りんご」が「美」を象徴したりと、感覚的経験的には遠く分離されたΔ二項をあえて短絡結合することで、そこになにか「深い」感じ、深層のβ脈動に触れているような感じを呼び起こすのが「象徴」である。

象徴は対立し合うものを結びつけ、矛盾や葛藤を両立可能にする。」

老松克博『法力とは何か』pp.216-217

象徴が、両義的媒介項を作り出す。

経験的に対立する二つのΔを短絡して、「Δ1でもあり非Δ1でもある」両義的で二極のどちらか一方に固定できない振動状態にある両義的媒介項。

経験的で感覚的なΔ四項関係のうちの一項としての姿をしている、ある言葉、ある対象、あるΔを、他の通常はまったく無関係な、あるいは真逆に対立する何かと「異なるが、同じである」という関係におく。

ここでΔ項の四項関係が、ゆがみ、ずれ、ねじまがる。そうすることでΔ四項関係の「深層」で動いて、Δ四項関係を波紋のようなものとして発生させてているβ脈動の影を、束の間意識の表層に浮かび上がらせる。

この図についての説明は、https://note.com/way_finding/n/n921ce7345eb9 をご参照ください。

科学的に説明できない→「科学的」とは?

さて、ここで法力の話に戻ろう。

法力とは、科学的に、つまり因/果関係を記述したり説明したりできないことである。この本で老松氏が書かれていることは、即ち、科学的な因/果だけで、この世界の全てをあまねく記述し尽くせるものではない、ということである。

「複数の事象のあいだにある連関の原理は因果律だけなのだろうか

老松克博『法力とは何か』p.129

と問いかけた上で、本書の最後の方で次のように書かれている。

「私たちが理解していると信じている対象は、おそらく自然そのものではない。あれほど強力な原理と思われる因果律でさえ、その支配下に置いているのは自然のごく一部である。私たちの自然に対する理解の仕方は、どれをとっても近似的なものにすぎず、都合よく切り取ってきた領域にしか通用しない。」

老松克博『法力とは何か』p.230

因果律で説明できる領域は「ごく一部」である。

因果律に基づく自然科学の理論でさまざまな事象と事象の関係を記述したり、さらには理論を現実に再現しようとする場合、原因となる事象を操作して結果となる事象を引き起こそうとするときには、いつも「条件」が厳しく問われる。

これが自然科学の力であり、科学技術が便利で役に立つところである。

この因果律を成り立たせる条件の最たるものが地球という惑星であり、人類という生命体である。例えば、因果律で決定されているように見える物理的な時間空間もまた、地球上の人間の心身によって設定された条件の一つだということもできる。

因果律は私たちの身近な物理的世界を強力に支配している。いわゆるニュートン力学の世界である[…]。逆に言えば、私たちは因果律によって時間に、ひいては空間に縛り付けられている。通常、私たちは因果律の外に出られないため、ときにこの法則の埒を超えたかに見える事象が発生すると、奇跡、神秘、偶然などと呼ぶことになる。」

老松克博『法力とは何か』p.88

この時間や空間ということが、人間にとってはそう観測できるという話であり、宇宙それ自体、、あるいは宇宙の「外」まで含めて、観測者と無関係にそれ自体として均一に広がっているわけではないということは、自然科学の精髄ともいえる近年の理論物理学によって明らかにされている。

この辺りの話は、カルロ・ロヴェッリ氏の著書にわかりやすく解説されているので、ぜひ参考になさってください。

言い換えると、時間もまた秒でも分でも、ある最小単位、t, t+1, t+2,…,t+xに分節されたΔの線形配列であり、、距離もまたメートルでもなんでもある最小単位に分節されたΔ線形配列である。Δ時間線形配列とΔ空間線形配列が、宇宙の果て、さらには宇宙の外の外まで、どこまでも一直線に伸びているわけではない

そして因/果もまた、因果が固まった二項対立関係として動かないようにされている限り、因もまたΔであり、果もまたΔである。


まとめ

因果律が「ダメ」だという話ではない。
因果律でよい、因果律でOK、因果律は便利で素晴らしい。

とはいえ因果律「だけ」では通用しない。

「ラーメンが美味い」ということと、「ラーメン以外の料理は存在するはずがないと信じること」とは、全く別の話である。

自然科学の概念と観測技術・観測装置で観測できる限りのある任意の第一の事象に続いてある確率である任意の第二の事象が生じることを観測できるとき、そこに私たちは「因果関係がある」という言葉を発する。

そして、この観測装置と観測技術とその設計図を引くための概念は、ある区切られ条件づけられた領域の内部で成り立つことである。言い換えると、因/果の二項対立に置き換えることができる他の二項対立が何と何と何のシリーズであるのかを、さらに別の二項対立によってコード化している

この因/果をもふくむありとあらゆる二項対立、二辺に分かれ、二極に分離した何かと何かを対立するペアとして”分けつつ繋ぐ”働きこそが、β脈動である。そして「共時性」こそ、この本記事でいうところのβ脈動の振動が、意識の表層に投げかけた影(象徴たち)のからみあいなのだと、言えるかもしれない。ユングがいう集合的無意識の働き方のパターンとしての「原型」は、このβ脈動巻き込まれたΔ諸項間の変身・変容の典型的な姿である。

共時律。即ち、事象と事象を「意味」で繋いでいくこと「意味する」という関係で、互いに異なるものとして区別された項たちを分けつつつなぐことである。共時律における事象間の分かれたり繋がったりする運動は、表層の意識においてΔ線形配列を固めることとしてではなく、深層の無意識と表層の意識の中間領域で、β項たちが過度に結合したり過度に分離したり、振幅を描きつつ脈動する動きとしてイメージされ、言語化される。神話のように。

老松氏は空海の『即身成仏義』に記された「妄執の差別、これを時と名づく」、「真言の果はことごとく因果を離れたり」という言葉を引用する(p.86)『即身成仏義』もまた『吽字義』と同じように、二重の四項関係、八項関係を描き出している。

この図についての説明はまだ書いていないのでお楽しみに。
  1. 妄執の差別は表層の意識がΔ線形配列を固めること。

  2. 因果もまた表層の意識がΔ線形配列を固めること。

これに対してβ脈動から意味するものと意味されるものとの関係が自在に結合したり分離したりを繰り返す「共時律」で観察すれば、世界は「重々帝網なるを即身と名づく」というあり方に見える。

おわりに

これを書いている私は、最近レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を読みつつ、両義的媒介項が木を登ったり降りたり、追いかけっこをしたりするというβ脈動のことばかり考えている。そういうわけで老松氏の『法力とは何か』を、特にその因果律と共時律に関するお話しを中心に拝読させていただいた。

『法力とは何か』には老松氏が「内在的理解者」として対話し、経験した、X和尚のいくつもの法力の話が克明に描かれている。その詳細についてはここで紹介することはしないので、ぜひ『法力とは何か』を手に取って、読んでいただきたいと思います。


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