見出し画像

子どものことばは神話的思考 ―昼寝と草取りと深層意味論

最初にレヴィ・ストロース氏の『神話論理I 生のものと火を通したものの』の冒頭の一節を読んでみよう。

生のものと火を通したもの、新選なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身をおいて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにして行われるかを示すのが本書の目的である。」(クロード・レヴィ・ストロース『神話論理I 生のものと火を通したものの』p.5

子どもはよく「どうして」という。

どうして夜になるのか?
どうしてパパはむかし子どもだったのか?
どうして夏は暑いのか?
どうしてぬいぐるみは死なないのか?
どうして(こども園の友達の)○○ちゃんは(不意に)喋らなくなる(ことがある)のか?

どうして?の中身を見ていくと、そこには「区別」が溢れていることに気づく。

子どもは区別の理由を求める

これは民族誌家ならぬ、現にある多数で多様な世界のある断面を生きているひとりの子どもが発見した「経験的区別」である。

夜と朝の区別。
子どもと大人の区別。今とむかしの区別。
夏と冬の区別。暑いと寒いの区別。
生命と非生命の区別。
饒舌と沈黙の区別。ある時間とその前の時間との区別。

さきほどの「どうして」にはこれだけの経験的区別が詰まっている。文字にすればわずか数行のはなしである。そこに驚くべきことに、これだけの区別が詰まっているのである。

というよりも、私たちの言葉というのが、そもそも区別をするための仕組みなのである。あるいは言葉というか、脳と言葉からなるハイブリッド・システムのアルゴリズムだとでも言ったほうがいいかもしれない。

上の子が3歳くらいのころ、夕方、昼寝から起きて、まだ「おひさま」が空にあると、「朝になった」と言っていた。

大人が「朝ではないよ、いまはもう夕方だよ」と言うと怪訝そうな様子だった。

そして気づく。

どうやらこの子は「空が暗い=夜、空が明るい=朝」という区別をしているのだと。

空が暗い 対 空が明るい

という区別が、

夜 対 朝

という区別と、「空が暗い=夜、空が明るい=朝」となる向きで重ね合わされている。ここには「夕方」という概念はまだでてきていないのである。

考えてみれば「夕方」というのは「空が明るい」を、さらに午前と午後を区別した時に、あるいは太陽と地球の位置関係のパターンで区別した時に、「朝方」に対立するものとして、朝方ではないもの、として区切りだされるものである。

フィードバック、自分の言ったことを大人が反復するか?

子どもが「(夕方の)空が明るい」という経験を、とっさに「朝になった」言葉で声にして発して親に聞かせるというのは、自分が無意識に行い、意識の表層に立ち上ってしまった区別を親もまた同じように行っているのかを確認するイベントでもある。

ここでもし親が同じように「うん、朝になったね」と反復していえば、その声を聞いた彼の中では「空が暗い=夜、空が明るい=朝」という意味分節体系にポジティブ・フィードバックがかかり、この区別同士の重ね方は強化される。自分が発した声を自分の耳で聞いた後で、その直後にオトナの口が全く同じ言葉を発する声を聞く。この反復は脳の神経系の学習にとっては絶好調の条件であろう。

逆に、親が「うん、朝になったね」などと子どもの声が言ったことを反復しないで、「朝ではないよ、いまはもう夕方だよ」などと返してくる場合、ここで子どもは戸惑うわけである。しかしこの戸惑いは「わるい」ものではない。子どもは気づくはずである。「(この親は、自分とは違う、なにか別の区別をしているらしい)」と。

このあたりは最近のAI(人工知能)の機械学習の世界でもある。

ちなみに、区別と反復(差異と反復)ということは、20世紀の思想の核にあるダイナミックな原理である。例えばドゥルーズの『差異と反復』や『意味の論理学』はまさにこの主題を扱う。

区別しただけでは終わらない。命題にしないと気がすまない

レヴィ・ストロースが書く「区別は経験的もの」であるということ。区別を考える上で、これが何より重要なのである。

区別というのは、つまり「さあ、よく考えて区別をしましょう」という具合にアタマをひねって絞り出す”意識的”なものではなく、"無意識"に気づいてしまうもの、それが経験的区別である。

例えば、ぼーっとしながら口に運んだ食べ物が「熱かった」とする。それが熱いと「分かる」のは、「矛盾なく考えるならばこの状況は熱いと言わざるを得ない」などと合理的に推論した結果ではなく、身体で「分かる」ことである。それは脳を使わずに、諸々の感覚器官の最先端で「分かる」あるいは「分けられる」事柄なのである。言い換えると、ここで「情報」が始まる。

人間が人間的であるのは、感覚的に区別しただけでは終わらないことである。感覚器官で区別をしたらその区別に応じて身体を動かせばOK!という生物は多い。例えば、熱ければ逃げる、水に濡れたら逃げる、特定のタンパク質にふれると捕まえて作用する、などなどである。

ところが人間は、この感覚的で経験的な区別を「説明」する言葉を考えずにはいられない。

どうして夜になるのか?
どうしてパパはむかし子どもだったのか?

などはまさにそのいい例である。

夜は暗いなあ、パパは自分よりも大きいなあ、と経験的な区別を知覚したところでは「終わらない」で「どうして」と問いたくなるのである。

これは人間の脳が、感覚器官から送り込まれつづける大量の区別を「整理」するように動いているからだと考えられる。

大量の区別を「整理」するとは、具体的には、ある区別と別の区別を、ある場合は一連のものとして接続し、ある場合は接続しない、という処理である。

料理をお皿に並べるときでも、本棚に本を並べるときでも、畑の雑草を選んで引き抜く時でも、私たちは何食わぬ顔で、第一の区別を、第二の区別に置き換えて意味を見出している。

2歳児と庭の草むしりと深層意味論

例えば畑の雑草(雑草というものはない、というお話もある)。

草を掴んで、「ああ、これはこの畑で育てている作物の葉っぱとは違うなあ」区別できたとする。しかし単発の区別はここまでである。

そして、ここで終わってしまってはダメなのである。

次に、この違う葉っぱだな、という区別を、

引き抜く 対 引き抜かない

という別の区別と「重ねる」必要がある。

そうすることで初めて「引き抜いていい草」「引き抜いてはいけない草(作物)」という意味が始まるのである。

2歳前くらいの子供と、実家の庭で草むしりをすると、それこそ手当り次第、雑草だろうがお花だろうが食用作物だろうが、手に触れた葉っぱを引き抜いてしまう事がある。オトナは「大わらわ(大童)」で、「これは抜いちゃダメ!」などと駆け回ることになる。2才児から見れば、大人は、なにか草が手に触れると、それを引っ張っている、というように見えるのだろう。

意味とは、ある区別を別の区別と重ね合わせる、接続するという、脳の働きから生まれる経験である。そしてここには、区別同士を重ねるのか重ねないのか、接続するのか接続しない、という区別が動いている

(経験的)区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる

レヴィ・ストロースが「つなぎ合わせて」「命題にする」と書くのはこういうことである。

つづく

関連note




最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。