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『新型コロナからの気づき―社会と自分の関わりを中心に (4)社会は変わるのか?』(柳澤協二氏)

[画像]自宅待機中に、スマホを見る女性。新型コロナウィルス流行下、休業を余儀なくされた人々が社会に思わぬ波紋を広げていく―。

【道しるべより特別寄稿のご紹介】
特別寄稿最後の回は、新型コロナウィルス流行下で起きた日本社会のあり方を振り返り、これからを展望します。コロナが浮き彫りにした社会像をいかに変革していくのか、その手がかりを探っていきます。

社会は変わるのか? 
 コロナで一番驚いたことは、なんと、マスクがない。マスクも、経済大国日本が自力では作れなかったのです。病院も、あんなに儲けていると思っていたら、感染者を受け入れる余裕がない。「働き方改革」 で、若者たちは何不自由のない生活を謳歌できるはずだったのに、数週間お店が閉まると職を失う。日本の医療や雇用は、こんなにもろかったのか、ということでした。
 社会が、そのように設計されていた。ドライブモードで走るぶんには快適だが、坂道に来るとエンストしてしまう車のようです。そういう車は、設計に問題があるとだれでも思う。こんなにもろい社会も、設計に問題があるはずです。それは一言で言えば、利益を最大化するために利益を生まない要素をとことん切り捨てた社会のもろさだと思います。
 突飛ですが、私は自衛隊の戦車を思い出しました。戦車の乗員は、以前は4人でした。指揮官と操縦、弾込め、射撃です。最近では、弾込めを自動化することで乗員を3人に減らしています。戦争しなければそれでいいのですが、戦場で一人怪我をしたら、手伝える余力がないので戦車が動かない。いまの社会全体がこの戦車のようになっているのかもしれません。

砲撃する10式戦車

[写真]砲撃する10式(ひとまるしき)戦車。現在の10式、一世代前の90式(きゅうまるしき)戦車は、それまで4名の乗員を自動化で3名に減員している。

 もう一つ驚いたことは、自粛のなかで人々は平常でなくなっている。不安と苛立ちがあり、目に見えるものに敏感に反応するだけでなく、考える時間もある。それは、"ぼーっと生きる"時間ではなく、不安と苛立ちのこもった時間でした。そこで何が起きたかといえば、政治に対する見方が厳しくなったことでした。政府の説明不足や対応の矛盾に敏感になった。世の中が順調に回っていれば、仕事が忙しくて問題にもならなかった物事が、優先すべき仕事がなければ、目につくのも当然かもしれない。
 検察庁法改正案が廃案になったのは、その表れだと思います。仕事が忙しければ、検察官の定年など、普通の人々には"どうでもいいこと"だったはずです。特に、仕事の減った芸能人が声をあげた。仕事のために遠慮していたその仕事がないから。そして拡散した。
 政治の側も、従来の政権のやり方からすれば、多少の反対があっても法案を通していたと思いますが、それができなかった。これは、人々の反抗であり、気づきの力だと思います。
 その気づきが、社会の設計のおかしさに向けられたとき、社会は変わらざるを得ません。

国会議事堂(閉会後)

[画像]閉会中の国会議事堂。新型コロナウィルス流行後、緊急事態宣言の早期発令、検察庁法改正への抗議など、政府の世論への対応は終始後手に回った。現在、臨時国会の早期開会をめぐる与野党の駆け引きが始まっている。

 これからも、"検察庁法"のような"小さな出来事"が続くと思います。これまでのやり方が通用しなくなる出来事の積み重なりがあって、社会が変わっていくのだと思います。歴史はそうやって作られるのかもしれません。そういう時代を生きていることに改めて感謝したい気持です。

【執筆者紹介】
柳澤協二(やなぎさわ・きょうじ)
東京大学法学部卒。防衛庁(当時)に入庁し、運用局長、防衛研究所所長などを経て、2004年から09年まで内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)。現在、国際地政学研究所理事長。

柳澤理事長 論考掲載写真7分の1サイズ


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