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【『新型コロナからの気づき(2)』に寄せて 】②自己実現が他人を犠牲にしてはならない理由

[画像]イラク復興支援中に日の丸を振る自衛隊員。あたかも敵の標的になるような日の丸を掲げたのは、戦闘する意思がないことを示し敵の攻撃を避けるために現場が編み出した知恵だった。
(出典:陸上自衛隊ホームページ 「フォトギャラリー 国際平和協力活動等(及防衛協力等)」https://get.google.com/albumarchive/115305223408918522377/album/AF1QipNiDROEngEz6FTmeGAmaggyl4pnrtP5Gcqu2e46)

 論考で、コロナ禍に伴う"自粛警察"、ネットでの誹謗中傷に警鐘を鳴らされていた柳澤さんですが、そうした意識の原点もご自身のキャリアのうちにありました。40年余り、自己実現の拠り所だった防衛官僚としての歩みに間違いはなかったのか―。柳澤さんの自身のキャリアを振り返る、新たな歩みが始まりました。

戦後の激動とともに駆け抜けた、官僚人生への反省

 防衛庁、内閣官房で務めを果たされた柳澤さんが退官後にご自身の考えを世間に発信されるようになったきっかけは、ご自身のキャリアがまっとうなものだったか考え直したことでした。

(……)現役を退いて考えるようになったことの一つは、私の官僚人生を通じて、多くの人に支えられ、また、多くの人の気持ちを傷付け、迷惑をかけてきただろうということでした。
 自分の仕事によって迷惑をこうむっていたかもしれない人々の思いや痛みを、自身がどれだけ理解できていたのだろうかと考えると、プライドも満足感もあったものではありません。
(NHK出版『自衛隊の転機-政治と軍事の矛盾を問う』P.236)

 こうした思いから、柳澤さんは自らが実現に関わった安全保障政策を見つめ直す作業に取り組むこととなりました。柳澤さんが政策実現にご尽力された期間は、自衛隊が日米同盟下で新たな役割を担おうとする平成の激動の時期でした。その実現過程で自分のキャリアは誰かを犠牲にしていたのではないか、柳澤さんの心中にはそんな思いがこみ上げていました。

 (……)世の中は人で成り立っているのですから、人を見ない政策論は、机上の空論にならざるを得ません。自分が作成にかかわった法律や制度の下で、もし自分が出動命令を受けたらどうするか。「犠牲覚悟でやらなければならない」と思えるかどうか。それを我が事として考えてこなかった、ということです。
(NHK出版『自衛隊の転機-政治と軍事の矛盾を問う』P.236-237)

 ご自身のキャリアを見つめ直すうえで最も大きな作業が、ご自身の約40年に及ぶキャリアの集大成でもあった自衛隊イラク派遣の検証でした。首相官邸という政策決定の中枢でイラク派遣の実務責任者を務めた柳澤氏が、アメリカの武力行使を支持した政府の判断、自衛隊派遣のプロセスを当事者の一人として検証し、『検証 官邸のイラク戦争―:元防衛官僚による批判と自省』を上梓されました。

17.11.19 イラク人道復興支援活動・浄水場の施工状況を確認する隊員_R

[画像]イラク人道復興支援特措法に基づく活動。自衛隊員たちは時に迫撃砲弾が撃ち込まれる限りなく戦場に近い環境で、現地住民のために復興支援に取り組んだ。(出典:陸上自衛隊ホームページ「フォトギャラリー 国際平和協力活動等(及防衛協力等)」https://get.google.com/albumarchive/115305223408918522377/album/AF1QipNiDROEngEz6FTmeGAmaggyl4pnrtP5Gcqu2e46)

 それは日米同盟の下で自衛隊を日本の国益のために海外派遣することを模索していた、ご自身のキャリアの否定に等しい作業でもありました。柳澤さんは現在に至るまで、自衛隊ひいては日本の実情と乖離した海外派遣の見直しを世間に訴えていくようになります。
 厳しい作業でも続けてこられたのは、本論考紹介の冒頭で引用した西広防衛事務次官のお言葉、先の解説でご紹介した柳澤さんが生涯の師と仰ぐ当時の栗原防衛庁長官の薫陶に報いる想いも込められていました。

 秘書官として仕え、その後も親交をいただいた故栗原祐幸代議士は、「仕事は、知識ではなく人格でするものだ」と教えてくれた。戦中・戦後を自分の意志で生き抜いた政治家の言葉には、重みがあった。
 今日、こうした諸先輩と同じ年齢となった自分がその教えにどこまで近づけたのか、忸怩たる思いあるが、本書は、その一つの答えであると同時に、後世に残し、批判を受けるべき「自分なりの論理」であり「人格による仕事」でもあると思っている。
(岩波出版『検証 官邸のイラク戦争:元防衛官僚による批判と反省』P.184)

誰かを犠牲にしない社会・国家への願い

 戦後日本において、自衛隊員は自衛隊と憲法第9条の関係をめぐる激しい論争のために、複雑な立場に置かれていました。柳澤さんのキャリアは、そうした日本社会で彼らが時に社会でのけ者とされてしまうのを目の当たりにする時間でもありました。平和な時間と災害派遣の積み重ねが国民の自衛隊員への信頼を高めたものの、不信が消え去ったわけではありませんでした。そんな不満が噴出したのが、湾岸戦争への対応に政府が揺れる折に自衛官の部下がこぼしたある言葉でした。

 当時、湾岸戦争への自衛隊派遣をめぐって、国会で、自衛隊を別組織にして派遣するような議論が繰り返されていました。自衛隊が行けば憲法違反で、自衛隊の看板を変えれば憲法違反にならない、といった理屈です。自衛官の部下たちが「俺たちだって日本人だ。なにも戦争屋じゃないんだ」とカンカンに怒っていたのをいまでもはっきり覚えています。もちろん、外では、そんなことはおくびにも出しませんが、あのときの彼らは本当に悔しそうでした。
(NHK出版『自衛隊の転機-政治と軍事の矛盾を問う』P.18 ※太字は道しるべスタッフ編集)

 そうした現場の声に触れてきた柳澤さんは、広報課長時代には広報誌の発刊に力を入れ、自衛隊と国民の距離を近づける努力をされてきました。運用局長の頃は現場と政治をつなぐべく、自衛隊の立場を代弁するとともに、自衛隊に政治の意向や法律の限界を伝えてこられました。
 退官後は国民の希望とかけ離れた自衛隊の海外派遣を可能とする安全保障政策の見直し、その延長上にある憲法改正に異を唱えてこられました。
 そこには自衛隊員は国民の支持がなくては存分に働けないのに、時に政争の結果として海外に派遣されてきた過去への反省の念が込められています。かつて自らも関わったイラク戦争については、日米同盟維持に盲目的に邁進し首相官邸が自衛隊イラク派遣に突き進んだという反省に至り、同盟の”お付き合い”のために隊員を生死の淵に追いやってしまったという悔恨の念がありました。

 柳澤さんの論考の主張は、自己実現とは他人の犠牲の上に成り立つものではないという、自らのキャリアから得た教訓があったからでした。そんな柳澤さんが願う国家像を末尾に引用します。

 私が望む国は、すべての国民が自己実現の機会を与えられる国です。自分にとって大切な価値とは何かを考え、確信をもってその実現に向け努力していくこと。そのプロセスが自己実現だと私は考えます。憲法を変えたいという自己実現も、否定されるべきではありません。しかし、自己実現は、ほかの犠牲の上に成り立ってはいけないと思います。私が自衛隊員のリスクにこだわる最大の理由は、そこにあります。
(NHK出版『自衛隊の転機-政治と軍事の矛盾を問う』P.237-238)

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