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白と黒で、写真と#2−5

5.「プラットフォーム」ーー結論にかえて

>>読書会は、とうとう本日の2200となりました。
>>保坂がおすすめするのは、まずここから読みましょう。
>>まとめ整理をします。

P132:森山大道は、
P132:プリンティングの極とシューティングの極に同時にいて、
>>P92 :プリントの極に、光を定着する写真の物質条件そのものを表現するという自己言及性が見られるように、路上の極には写真史に集蔵された数々のイメージへのあからさまな自己言及性がある。

P132:写真の物質的条件への自己言及と歴史的条件への自己言及の両方を行う。
P132:彼のリアリズムは、「あるがままの現実」と写真のあいだで生ずるのではなく、
>>p119:写真のリアリズムは「あるがままの世界」にはない、と。

P132:写真とその写真が甦らせる無数の記憶のあいだで生ずる。
>>p101:と言われるときの、写真の「多重性」、すなわち写真が無数のイメージと開かれ、無数のイメージ=写真を「記憶」していることであり、後述するようにその無数の記憶によって、そのつど森山大道の「リアリティ」が再生されつづけることである。

P132:それは、記憶のリアリズムであり、暗室のリアリズムである。
>>P127:森山にとっても「記憶」は、暗室作業に関わっている。プリンティングが、自己表現でなく「記憶」に関わっていることが、クラインと森山を分かつ点である。また写真の出発点としての「写真を見る」が暗室で行われることが、ウィノグランドとの相違である。

P132:彼にとって「撮る」と「見る」は分かちがたく一体化しており、そういうものとしての写真の特権的な場所が暗室なのだ。
>>P113:人物を人物として撮っている作品がそもそも少ないので、ウィノグランドのような視線のカオスもなく、「私」は完全にゼロになってレンズと一体化しているように見える。

P132:暗室での現像とは、(1)光を物質へ、(2)印画紙を網目へ変換することであり、
>>P92:ただ、暗室で浮かび上がるこのざらつきは、光との化学反応による分子的なものであり、じつは「網目」の世界すなわち、pixel/pic(ture)-cell -映像細胞による世界の。低い解像度によるざらつきとはことなる。

P132:(3)それは記憶の再生であり、(4)それと同時に見知らぬ自己の再生を意味する。
>>P125:『失われた時を求めて』の語り手は、思いがけない物質的対象に出会い、そこから意思的に思い出したのではない記憶、ほとんど失われていたも同然の記憶が生き生きと溢れだしてくるのを感じて強烈な喜び(あるいは苦痛)を覚える。
>>p128:この「見知らぬ自身」との遭遇、「自身の具体性」の知覚こそが、森山大道にとってのリアリティである。

P132:森山にとって写真を見る=撮るとは、無数の無意志的記憶との遭遇であり、それに伴う事物の本質と真の自我のそのつどの蘇生である。
>>p21:というのも、その落差が我々にあたえる衝撃だけが我々の生を形成し、そのつど一つの個体の痕跡として焼き付けていくからである。

P132:言い換えると、あらゆる写真は多重性を帯びており、多重状態が生じる。(無意志的記憶が生じる))ごとにリアルな世界とリアルな自己が生み出される(リアリズム)。それとともに、写真の時間性は「いま・ここ」という瞬間を離れ、過去と未来が無数に折り重なった「純粋状態にあるわずかな時間」「extra-tempore(超・時間)」(プルースト『見出された時』325頁)におかれる。
p134:さらに、この多重状態には写真を見る者もまた含み入れられ、写真を見ることそのものが、記憶と再生を連ねて展開する芸術的なコミュニケーションの一部となる。
>>白と黒で、写真との意味か?

#この章の後段も、つづくp138「砂漠よさようならーー森山大道の七〇年代」も、切り口をかえた語り直しなので、予習はここで終わり。
おすすめの読みどころは、清水穣先生が写真を見ながら、無意志的記憶に躓き、アイデンティティの崩壊と再生をする、p113〜p116あたりというところに思います。
お疲れ様でした。

2022/01/24 8:30

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