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狂室のアラクネー


 秋の空に相応しい、天高い鮮やかな青とたなびく雲が、雰囲気を盛り上げていた。
 私立円聖高校青雲祭。
 芦沢史郎は10年振りの学校の空気に複雑な思いを巡らせていた。
 懐かしさ。場違い感。自分の母校との違い。色々ある。
 一番大きいのは、いくら招待状を持っているとは言え、まったくの無関係である自分がこんな場所にいていいのかどうか。
 史郎は28歳である。高校の生徒の兄としては老けているし、親としては若過ぎるのだ。アウェイという言葉が頭を過る。
 円聖高校は、かつての名を私立円聖女学院高等部と言う。いわゆるお嬢様学校である。
 招待状がなければ、こんな場所に入る事は絶対になかっただろう。縁がないのだ。招待状がなければ入れもしない。
 確かに、円聖高校は数年前に共学校になった。だが、それでも男子生徒の数は圧倒的に少ない。正確な数字は知らないが、1/10以下だとか。
 いわゆる秋の学園祭である青雲祭。保護者の姿もそれなりに見掛けるが、保護者でさえ男性は少ないように見える。
 教師と、用務員などを含む男性職員。男子生徒。そして、この二日間だけの男親、兄弟、男友達。
 すべて併せても全体の1/10と言ったところか。聞いた話では、男子生徒のみのクラスもあるらしい。混合クラスでの男子生徒の肩身の狭さを想像すると身が竦んだ。
 ざっと10年振り。いや、大学を出ているから、6年振りの学校ではあるが、大学とはやはり随分と空気が違う。大学生はまだ子供とは言え、社会人との繋ぎになる自由な身分だ。
 いくら大人ぶっても親の管理下にある高校生とは勝手が違うのも当然だろう。そもそも、共学になったとは言え、お嬢様学校の雰囲気に気圧されている史郎ではあった。
 男親はまだ余裕を感じる。私立のお嬢様学校に娘を通わせる身分なのだから、当然なのかも知れない。しかし、女生徒の兄や弟となると、どうにも居心地が悪そうに見える。
 中には女生徒の彼氏、なんてのも混じってはいるのだろう。しかし、お嬢様学校だけに彼氏を呼ぶ生徒は多くないのかも知れない。女の園の中に放り込まれた状態だ。借りてきた猫のようになっている。
 その中でも史郎は、同年代の男が男性教師ぐらいしかいない状態だ。やはり、座りが悪い。
 感覚的に言えば、女性の下着売り場にポツンと取り残された男の気分だ。
 男子生徒はずっとこんな気持ちで通っているのか。それとも慣れてしまうのか。
 祭りの屋台にいる男子生徒を見る。どの程度のバイアスが掛かっているのかわからないが、女生徒に扱き使われているように見えてしまう。
 だが、扱き使っているように見える女生徒も、確かに美形が多い。金持ちになれば美形と結婚できて、その子供も美形になるという事だろうか。
 史郎も、懸命に働く彼ぐらい若ければ、美少女だらけの環境を羨ましがったかも知れない。
 しかし、男として生まれて28年。羨ましい気持ちがないとは言わないが、厄介の方が勝りそうだと肩を竦める。
 そんな史郎が、ここに来た理由は、招待状を貰ったからに過ぎない。その人物に会いに来たからである。
 北条樹里。17歳。この学校の生徒である。
 招待状は彼女に貰った。
 知り合った切っ掛けは、気晴らしに登録した「出会い系サイト」である。
 女の肉体が目的ではなかったと言うつもりはないが、何となく思い付きと勢いで登録し、サクラと思われる女や、すっぽかしや肩透かしを何度か喰らい、退会しようと考えた矢先に出会った。
 曰く、「食事するだけ。エッチな事はナシ」という事で、半ば諦めていた史郎は諦観のもとで会う事になったのである。
 会ってみて驚いたのだが、樹里は眼を見張るレベルの美少女だった。
 艶をたたえた緑の黒髪。色白なれど健康的な肌。長い睫毛。水底に沈んだ黒曜石のような瞳。まるで男の理想を詰め込んだ人形のような美しさ。
 むしろ、美しさに息を呑んでしまい、不思議と性欲は湧かなかった。
 眺めてるだけで目の保養になる。それが史郎の正直な感想だ。だが、物憂げな表情には漂う色気があり、組み敷いて思うままにしたいという欲求がない訳ではないのだ。
 会ったその日は、普通にファストフードで食事して、少し話をして、食事代を支払っただけ。
 もう縁がないかと思ったが、再び連絡が入った。
 少しばかり値の張る店に入ったが、この日も食事代しか出していないし、話をしただけだ。
 そこから、何度か会うようになったのである。
 樹里は不思議な少女だった。特によく喋る訳でもない。史郎に面白い話を要求する訳でもない。ただ、食事をして1時間半ほどをだらだらと過ごすだけ。
 しかし、史郎にはそれが心地良かったし、樹里もそれが目的のようである。
 確かに、掴み所がない少女ではあった。別段、女心がわかる訳ではないが、少々悪戯好きだとか、たわいもない話をポツポツとするぐらいで、金に困ってる様子もないし、出会い系サイトに縁があるようにも思えない。
 家庭環境に問題があったりする様子もなければ、恋愛や性に興味がある雰囲気もなかった。
 強いて言えば、たわいもない悪戯を仕掛けてくるぐらいである。
 「お手洗い」と告げて席を外したかと思えば、30分以上戻って来ない。どうしようかと逡巡していると、後ろの席から狼狽する史郎を眺めていたりする。
 待ち合わせの場所でも似たような事をされたし、会った瞬間に無視してすれ違う、と言うような「意地悪」もされた。
 だが、それも含めて、史郎は樹里の虜になっていたのである。
 樹里も悪いようには思っていないらしい。からかわれているだけなのかも知れないとは思っているが、抱きつかれたりもしたし、その内にキスも交わすようになった。
 急に冷たくなったり、連絡が来なくなったり、しかし、それも彼女の悪戯の一環なのかも知れない。
 そして、とうとう肉体も重ねた。
 まだ、二度だけしか抱いてはいないし、抱いたからと言って樹里の態度が変わったりした訳でもない。
 ただ、そこには1人の女子高生に振り回される男がいた。そして、それは思ったよりも狂おしく、同時に心地良いものでもあったのだ。
 だから「学園祭に来て」と言われた時には、素直に行くと返事をしていた。
 招待状は受け取ったし、生徒手帳も見せて貰ったが、また自分が騙されているような気がしなくもない。
 招待状に同封されたプログラムと催し物の地図を見る。
 マーカーで、◎をつけてある場所に足を運ぶ。
 そこは、後者の裏側に位置しており、学園祭の只中だと言うのに、人っ気の少ない建物だった。
 正確なところはわからないが、小さな四棟ほどが並べてくっ付けられたプレハブ小屋に見える。全体的に金がかかっている校内にて、明らかに安っぽい。部室棟にしてもお粗末な外観である。
 「いらっしゃい」
 突然、耳元で囁く声に身を震わせる。驚いて慌てて振り向きはしたが、声でわかっている。樹里だ。
 「来てくれたんだ」
 「あ、ああ」

 樹里は、まるで和菓子屋の店員のような着物を身に纏っていた。普段とは違う出で立ちに、少し動揺する。何故か、両手を前に、指先をだらんと垂らしている。
 「寄ってってくれるよね」
 「喫茶店かい?」
 「わかんないかな。お化け屋敷ホラーハウス

 そこでようやく理解した。樹里のポーズはユーレイを模しているのだ。そして、三角の白いカチューシャは、カチューチャではなく、幽霊のシンボルとも言うべき天冠(額烏帽子)だったのである。
 「お化け屋敷ね」
 そう言い終わるか否か、プレハブ小屋から、ガタン、と物が倒れるような音がして、
 「うわ、うわっ、わぁッ!」
 と途切れがちにしどろもどろな男の悲鳴が聞こえ、またガタガタと騒音。間もなく、膝も腰も利いていないような中年男性が、転びそうな勢いで扉から出てきたのである。
 「ガチなヤツ?」
 這々の体という言葉に相応しい後ろ姿を見送り、史郎は問う。樹里は笑顔になって質問には答えず、史郎の腕に腕を絡めて、プレハブに近付いた。
 悪戯好きの樹里には絶好のシチュエーションなのかも知れない。嫌な予感こそするが、腕を組んで歩くと言うのは悪くない気分だ。年甲斐もなく、柔らかな胸の感触に鼓動が速まる。いずれにせよ、ここまで来て断ると言う選択肢はない。
 近付いて見てみると、プレハブの窓は黒い画用紙のようなもので目張りされており、隅までガムテープできっちり隠されている。
 どんな仕掛けがされているのかはわからないが、気合が入っている事は間違いなさそうだ。だが、部屋も狭い。どれだけ頑張ろうと、たかだか高校生の悪戯だ。先程の中年男性が臆病だったのだろうか。
 ドアの近くまで来た時、ドアから、今度はメイドっぽい服装に身を包んだ女生徒が出てきた。どうやら、顔に傷のメイクがあるので、ゾンビか何かのつもりのようだ。¥100ショップで買い揃えたような安いゾンビメイク。このゾンビメイドの女の子も間違いなく可愛らしいが、比較対象が樹里であるため、霞んで見える。
 「いらっしゃいませ? 彼氏? 違う?」
 ゾンビメイドが、史郎と樹里の顔を交互に見てそう訊いた。
 「かれしー」
 と棒読みで答える樹里。冗談でも「彼氏」と呼ばれるのは耳触りがいい。
 「ごゆっくりー」
 2人はケラケラと笑いあって、交代するようにプレハブに案内された。
 「せんえん」
 (ああ、お金取るんだ)と素直にそう思ったし、学園祭の催し物としては安くないな、とも思ったが、催し物が何であれ、その程度は使うつもりでいた史郎は、何のためらいもなく千円札を渡した。
 プレハブの中は、ドアが開いた状態でもかなり薄暗い。千円札を料金箱に入れた樹里がドアを閉めると、真っ暗と言えるぐらいには暗闇になった。
 だがそれでも、目が慣れてくれば漆黒の闇と言うほどではない。樹里の位置は把握できるし、空気の流れで、壁までの距離は何となくわかる。
 「こっち」
 そう言って、樹里が再び腕を絡める。
 暗闇に密着した男女。脅かし役は潜んでいるのだろうが、いかがわしい事を考える男がいても不思議ではない。よく、この企画を教師が通したものだと思う。いや、樹里のことだ。教師へのプレゼンと実際が違うのかも知れない。
 樹里に導かれ、奥へと進む。
 外観から推察するに、一部屋はそんなに広くない筈だったが、ドアノブを回す音とともに、奥の部屋へと進む。どうやら、プレハブの内部がドアで繋がっていたらしい。
 二部屋目に入った瞬間、空気が変わる。
 そして、樹里が扉を閉めると、部屋の中は完全な闇に飲み込まれた。何も見えない。これほどの暗闇を体験するのは久々だった。
 鼻腔をくすぐる妙な匂い。お香アロマでも焚いているのか。それでも消せない饐えた匂いがする。
 甘い匂い。汗の匂い。何の匂いかは直感的にわかった。
 この部屋には、史郎と樹里の他にも誰かがいる気配がする。外観からして、この部屋も前の部屋の広さと、そうは変わるまい。四棟ほどが連なっていたと記憶しているが、この部屋には詰め込んでも5人程度しかいられない筈だ。
 いや、この暗闇と距離を考えれば、脅かし役は1人か2人が限界だろう。
 「手、放しちゃダメ。何処にいるかわからなくなるよ」
 樹里の声が耳元で囁く。
 そうか。史郎がようやく理解した。樹里はその片手を壁伝いに進んでいるのだ。だからこの暗闇でも史郎を案内出来る。
 だが、他の脅かし役は? どうやって位置を把握する?
 そう思った瞬間、樹里が突然、絡めていた腕を放した。動揺が脳を走る。心が恐怖したのではない。完全な暗闇に、視覚、距離感を失ったのだ。
 そして、樹里が離れたことにより、平衡感覚さえも失ってしまった。
 もう、足の裏が床に接している事しか、何一つ確かなものがないのである。
 誰もが試した事ぐらいあるであろう、両目を閉じて片足を浮かせる遊び。この単純な行為でさえ、人は平衡感覚を保つことが出来なくなるのだ。摺り足以外で動く事は出来ない。そう思った時、樹里の手が、トンと史郎の身体を押した。
 「うぁっ」
 頓狂な声を出して転倒を危惧したが、史郎の身体は思っていたよりもずっと壁際にあったらしい。壁を背にする形で動けなくなる。
 「しーっ、動かないで」
 樹里の声が、また耳元で聞こえる。
 そして、それ以外の気配と、呼吸。自分の激しい動悸で聞こえづらいが、くぐもった呼吸音が、室内から微かに聞こえているのだ。
 脳が理解しようとしなかった、この匂い。最も近いのは、他人の寝室の匂いだ。
 最も長い時間、1人の人間が、同じ場所にいる場所の、人間の体臭。子供の頃、友人宅でかくれんぼをして遊び、友達の両親の寝室の匂いに感じる違和感。今ならわかる。あれは、体液の、セックスの匂いだ。部屋に染み付いたセックスの残り香なのだ。
 この部屋から、その匂いがする。
 そして、遠くない場所から聞こえる息遣い。
 自分と樹里の他に、男女がいる。
 「しーっ、静かにね」
 樹里の囁く声がする。吐息が顔に触れる。何が起ころうとしているのか、暗闇の中で妄想が駆け巡る。
 闇の中でも仄白く浮き上がって見えそうな樹里の白い指が、史郎の胸板を撫で上げた。
 ぞくりとした感覚が全身を襲う。
 ひんやりと濡れた何かが、史郎の頬を舐め上げる。
 「っ!」
 樹里の舌かと思ったが、どうやら違う。体温がない。それに、独特の匂いがある。部屋の匂いで判別はつかないが「お化け屋敷」のネタ的に、コンニャクかも知れない。
 胸を撫で回していた、樹里の指が、次第に下腹部へと降りてゆく。
 動けないでいる史郎の身体を、樹里の両手の指が、柔らかくまさぐる。
 隣でも、同じような行為が行われているのだろうか。
 樹里の手が、史郎の太腿を撫でる。
 もう片方の手が下腹部を撫で回す。
 そして更にもう一本の手が、再び胸板に触れた。
 手が多い。
 そう思った瞬間、部屋のLEDが一瞬で灯る。目が眩む。
 史郎の眼前に、巨大な、


 蜘蛛が。


 史郎が途轍もない唸り声を上げる。
 樹里の頭部は人間の頭部より巨大な蜘蛛になっていて。
 樹里からは四本の腕が生えていて。
 低い唸り声にしかならなかったが、史郎は悲鳴をあげていた。

 落ち着くまでに、5分は必要だった気がした。実際には1分程度だが、それぐらいに吃驚していた事は間違いないだろう。
 何の事はない。樹里が蜘蛛の着ぐるみを被っていただけの話だ。
 ちなみに蜘蛛の頭は、本物の暗視ゴーグルになっいてるらしい。
 最初は暗視ゴーグルだけのつもりが、暗闇で暗視ゴーグルを使うとゴーグル内の光が漏れるため、それを覆い隠すように目張りをしている内に、外装を蜘蛛に似せることを思いついたのだと言う。よく見れば大した事のないハリボテだが、あの瞬間は本物に見えた。幽霊の正体見たり、とはこの事なのだろう。
 コンニャクは正解だったが、室内の饐えた匂いは、単に運動部の部室というだけの話だった。その臭い消しにアロマは焚いたらしいが。
 聴こえた息遣いの正体と、樹里の四本腕は、もう1人の脅かし役の女生徒のものだ。樹里の背後にくっついて、史郎の身体を触っただけである。コンニャクもこの娘の仕業だ。
 暗視ゴーグルはひとつしかないため、樹里に接触していないと迷子になるからだが、それが結果として四本腕の蜘蛛に見えた訳だ。
 「変な声を出すからびっくりした」
 と樹里は文句を言ったが、結果としては満足だったらしい。いつも以上に楽しそうに感じる笑顔だ。
 相当驚かされたに、悪くない気分だった。
 むしろ、本当に焦ったのは、その直後に戻ってきたゾンビメイドが「教師が来るから逃げて!」と告げた事だ。
 詳しい状況はわからないが、史郎の前に飛び出して行った男が、騒いでコトを大きくしたらしい。教師を連れて戻って来る様子で、史郎には逃げた方がいいと忠告したのである。
 どんな脅かし方をしたのかは想像に難くない。それに、この漆黒の闇と化す部屋は、やはりどう考えても教師の認可したものではないのだろう。
 別に、冷静に考えれば、史郎に逃げ出さなければならない理由はない。
 正確に言うなら、ない訳ではないが、樹里と肉体関係を持っている事が露見する訳ではないのだ。
 しかし、教師らに何故この場にいるのか、樹里との関係を問い詰められでもしたら、どんな形でボロが出ないとも知れない。
 ゾンビメイドと樹里に促され、見送られながら早々にプレハブ小屋を出る。
 その後に、樹里らが説教されたのかどうか、気にはなったが事態を悪化させる可能性を考慮して、祭りの人混みに紛れた。
 空いていた屋台でポップコーンを買い、そのまま校門を出る。
 あのホラーハウスがどうなったかは、また今度聞けばいい。
 樹里のことだ。また会ってもらえるかはわからない。だが、会ってくれるような気はしている。
 いや、どうしても会いたくなれば、この学校で待ち伏せすればいい。
 そんな事を考えた史郎は、自分の思考がストーカーじみていると気付いて苦笑する。
 だが同時に、獲物に狙いをつけているつもりで、蜘蛛の巣に引っかかり、蜘蛛の糸に雁字搦めにされているのは自分の方だとも思う。
 女子高生とのふしだらな関係がいつまで続くかはわからない。いつまで続けていいものでもないだろう。
 いずれあの娘は別の場所に巣を張る。しかし、それでいい。きっと、それでいいのだ。
 秋の空が、頭上に高く広がっていた。

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 なお、この先にはあとがき的な何かしか書かれてません。


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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。