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〜泣きたくなる初夏の日はなぜだか風が心地よい〜

5月24日(日) 午前11時

 空は所々に雲は有るものの日が差して初夏を思わせる良い天気だった。私は部屋の窓から外を見ながら一度大きく背伸びをしてソファーに腰を下ろした。それからおもむろにスマホを手にしてネットサーフィンをしていた時、弟から電話がかかってきた。三児の父親として実家の近くに住む弟とは決して関係が悪いわけではないが連絡を取ることはほとんどない。年に数回、それも数秒の会話で終わるのがこれまでの常だった。

 「お父さんが田んぼで倒れたらしい 救急車で氷見市民(病院)に運ばれて今向かってる また詳しいことが分かったら連絡する」

 スマホから伝わってくる弟の声は、多少はテンションが高かったものの至って冷静だった。私も病院に駆けつけようかと考え、天気も良かったしアパート部屋の中にいるよりも…と思ったので、とりあえず車で病院へ向かうことにした。多分、貧血か軽い目まいで倒れたのだろうと私は特には重く受け止めていなかった。病院に着くとそこにはすでに、父と一緒に田植えをしていた近所の人たち数人と母親がいた。「意識も有るし会話もできている」との母親からの話しで安堵した。というより、「やっぱりな大丈夫なんだな」という思いの方が強かった。しかしながら、集中治療室に運ばれたということと、一緒に救急車に乗り込み父に付き添ってくれた村の人たちの表情が曇っていたのが少し心に引っ掛かった。入院の手続きを済ませ、付き添いに来てくれた人へのお礼の挨拶を済ませた後、休日当番医からの症状の説明があるとのことだったので、私は母親と一緒に診察室へ入った。当番医からの説明は、お腹の中で出血は見られるがどの程度の症状なのかは明日レントゲンや胃カメラを入れてみないことには詳細は分からないとのことだった。

 病院の受付の人から入院手続きをするのでと所定の用紙を渡された。実家の自宅住所と父の名前を記入したがそれ以外の項目は何も書けなかった。病歴、健康状態、飲み薬等々…そして、父の生年月日すらうる覚えで書くことが出来なかった。こんなにも父のことを知らなかったのかと、とても自分が情けなく感じた。入院手続きを済ませた後、母は明日からの父の入院の準備をすると言い足早に自宅へ向かった。

「全ては明日だな。」と、自分を諭して父のいる病室に一応顔でも出しとくかと思ったが、それも明日以降でいいやと思い、父に会うことなく私は病院を後にした。

 相変わらず空は所々に雲はあるものの太陽が眩しく綺麗な青空が見えていた。コロナ禍で小学校が休みで家にいた甥っ子と姪っ子も弟に連れ添って病院来てくれたが、現状を理解してはいない様子だった。久しぶりに会った子供たちと戯れあった後、特に用事は無かったが私も一旦実家へ向かうことにした。

 当たり前のように朝目を覚まし、当たり前のように体を動かし、当たり前のように親がいる。これまでも、そしてこれからもそんな当たり前が続いていくと思っていた。

 私は実家のリビングで何気なくテレビを付けて、特に興味がある訳でもないテレビを見ながらソファーに身体を横たえた。


同日 午後1時30分 叔母からの着信。

 「お父さんの容態が急変したらしいよ。」酷く同様し凄く焦っている様子が電話口から伝わってきた。田舎の小さな村では情報が伝わるのも比較的に速い。父が救急車で運ばれたことは既に叔母にも伝わっていたようだった。私は一瞬最悪のことが頭に過ぎったがそんな訳はあるまいと、冷静に返答した。「分かりました。今すぐ向かいます。」今から思ば、医師から叔母を通して家族を集めるようにとの指示が出たということは、つまりそういうことだったのだ。

 しかしながら、父に限ってそんなことはあるまいと、何故だか根拠の無い自信が私にはあった。病院に向かう途中で弟に父の容態が急変したことを電話で伝えた。「分かったぁ 向かうよ。」弟の声も至って冷静だった。その弟の普段と変わらない冷静な声を聞いて、改めて「父に限ってそんなことはあるまい。」と私は自分に言い聞かせた。

 病院に到着して私は足早に休日受付け入り口から父のいる集中治療室へと向かった。

 集中治療室のドアを開けると、そこには父の足元でうつむき背中を丸くして小さく震えながら椅子に腰掛ける母と父の隣で顔を強張らせて父に声を掛ける叔母がいた。父の意識は私が病院に着いた時には既に無く、医者とナース二人が慌ただしく父の手当てをしていた。病院に運ばれた時は確かに意識は朦朧としていたものの落ち着いてはいたようだった。しかし、母が自宅に父の着替えを取りに戻り病院に着いた直後ぐらいに吐血しそれを二度三度繰り返したと同時に意識を失ったらしい。私は真っ先に父の側に駆け寄ったが目の前で起きている現実を受け入れられず、ただ父の近くに立ち尽くすだけで何もすることが出来なかった。やがて弟も病院に到着し、父の元に駆けつけた。やはり弟も現実を受け入れることが出来なかったのか暫く立ち尽くしていた。

 医師とナース達は、ベットサイドに置かれている心拍を表すモニターを見ながら薬剤を投与していた。父の枕元は、口から飛び散った血で真っ赤に染まっていた。もしかしたら、父はダメなのかもしれない。この時になって私は、はっきりと最悪の事態が脳裏に現れた。「いや、そんなはずは無い これまで極普通の家庭で極普通の幸せと、どこにでもある平凡な田舎暮らしをしてきたじゃないか これからも極普通の日常が明日から続くはずだ。」私は心の中でそう何度も呟いた。いてもたってもいられず、私は父の右手を握り何度も父に呼び掛けた。

 「お父さん 大丈夫! 大丈夫!!」

 返事出来ずともせめて手を握り返してくれないか。父の右手を両手で握り締めながら自分の額に当てて大丈夫であることを強く祈った。やがて医師とナース二人による心臓マッサージが始まった。心拍を表すモニターの見方は詳しくは分からなかったが数字がゼロに近づけば近ずくほど父が死に向かっていくことは容易に想像がついた。私と弟はモニターを暫く見つめそして父の手を強く握りながら強く目を閉じて心拍が下がって行かないことを強く祈った。医師とナースは、父に声を掛けながら必死に心臓マッサージを繰り返す。やがてその額には汗が滲む。薬剤の投与もしながら心臓マッサージを繰り返す。私はそのまま手を握り続けていたかったが、医師達の邪魔になってはいけない、とにかく出来る限りの最善を尽くしてもらいたいと思い、父の手をそっと離し側でひたすら父の回復を願い祈り続けた。

 記憶は定かではないが、そうした治療が二時間程続いただろうか。医師から、「私たちはご家族の方々が納得いくまで心臓マッサージを続けるが、正直もう回復は見込めないと思う。」と、まさかの言葉が告げられた。つまり、今心拍のモニターが表す二桁の数字は、心臓マッサージによる心臓への衝撃を表すものであって、父の心臓が自ら動いているわけではないということだった。母は到底医師からの宣告を受け入れることは出来ず、半ば泣き叫ぶように医師に向かって心臓マッサージを止めないでくれと懇願した。ここは母の思うようにさせて上げようと、私からも冷静に医師に向かって心臓マッサージを続けてくれるようお願いした。「奇跡が起きてくれないか」私は心拍を表すモニターの数字を凝視しながら、数字が上昇してくれることを強く願った。この時、治療を施してくれた医師とナース達はもう父が生きて帰ってくることはないということは分かっていたはずだ。しかし、それでも私たち家族の前では、必死に蘇生を繰り返し行ってくれた。無駄だと分かっていても必死に蘇生してくれる医師とナース達の姿がとても有り難かった。と同時に、申し訳ないという思いもあった。こんな一大事の時に申し訳ないなどと思う必要があるのか。「例え誰が何と言おうと、とにかく父が息を吹き返すまで蘇生を続けて貰えばいいじゃないか なぜ諦めるんだ」私は自身の倫理観を疑った。

 私が大学生の頃、実家で父が倒れたことがあった。すぐに救急車を呼ぼうとする母を朦朧とする意識の中で、「救急車を呼ぶな 車で病院に運べ」と言い父が勤務する隣町の病院まで自家用車で運ばせたことがあった。なぜ救急車を呼ばなかったのかと聞いて、父から返ってきた答えに私は思わず笑った。救急車を呼ぶと、救急隊の人に迷惑が掛かるというのが理由らしい。何の為に救急車が有るんだ…。当然、周りに迷惑が掛かるからと言った理由で、身近な親戚にすら自分が入院した事実も告げず、病院受付に備えられている入院患者の名簿からも自分の名前を削除した。それくらい周囲の人に気を使い、他人に迷惑を掛けることを嫌う父だった。

 改めて私は父の子なんだと思った。私は覚悟を決めた。私は弟に自身の覚悟を伝え弟も黙ってそれに頷いてくれた。そして、母の両肩にそっと手を置いて母を父の側から離して別室へと連れて行った。うずくまりハンカチをギュッと目に当て泣く母。私はただただ母の背中をさすってあげることしか出来なかった。やがて少しばかり母の呼吸が落ち着いてきた。私はそれを確認して、、、

 「辛いけど もうここまでにしてもらおう」

 父と職場を同じくして病院勤務を三十五年間務めてきた母も、もうお父さんは帰ってこないということは分かっていたはずだ。

 「判断はテツオに任せる」母はそう言って、うずくまって泣いた。

 父の死を最後まで認めたくなかったのだろう。「本当にこれがベストな判断なのか 父ならこんな時どんな判断を下すのだろう」私は再び自分自身に問いかけた。そして改めて覚悟を決めて必死に心臓マッサージを繰り返す医師の元に歩み寄った。

 「ありがとうございました」

 それだけを言うのが精一杯だった。

 医師は私からの言葉を確認して父の身体からそっと手を離し、ナース二人もそれに従った。それと同時に、心拍を表すモニターの数字も下がり始めた。残された私たち家族へのせめてもの配慮だったのだろう。モニターの数字がゼロを示す前に、医師はモニターの電源を切ったようだった。それから瞳孔の動きをチェックし、瞳孔に動きがないことが確認された。

 令和2年5月24日(日) 午後4時 父  利紀夫 永眠(享年66歳)

 母親は再び声をあげて父の眠る側で泣き崩れた。ずっと気丈を保ち続けていた弟も肩を震わせ声をあげて泣き崩れた。


 今まさに父が亡くなったというのに、私はその場で泣き崩れる二人と違って何故だか至って冷静だった。まず真っ先に連絡を入れたのは会社だった。とにかく私事で会社に迷惑を掛けたくないと思い、翌日からの仕事の段取りを伝え電話を切った。そして身近な親戚から連絡し、取り敢えず思い当たる人達に連絡を入れ終えたところでようやく弟が父の死を受け入れ涙を拭って私の側までやってきた。












  





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