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西武池袋線元加治〜飯能間に長年残っていた単線区間(笠縫信号所)。開通86年目にして完全複線化した変遷

飯能の鉄道といえば、メインは西武池袋線。運用上の終点である飯能駅があるし、秩父線方面へスイッチバック形式になっているのも珍しい。バブル期に計画された飯能短絡線も用地買収まで完了しているのに結局未完成なのも有名。
と、色々とネタはあるが、地元民としては今は当たり前の元加治駅〜飯能駅間の完全複線化が2001年にようやく完成するまで、単線区間との境目(笠縫信号所)が徐々に飯能寄りへ移り変わっていったのが印象的なので、思い出してみる(&調べてみる)。

まず、自分が小さい頃のこととして覚えているのがどうやら一番最初の形のようだが、初代の笠縫信号所は笠縫と岩沢の境目付近にあった。八高線と交差する手前(元加治駅側)。住所的には、ぎりぎり笠縫、というあたり。

Wikipediaによると、西武池袋線が戦後に複線化を行なっていくにあたり、クロスする八高線がガーター橋という古い橋であったため、複線用の拡張が困難であったようだ。
1956/03/09(昭31)に米軍が撮影したと思われる航空写真はまだこの付近は単線時代。
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=31795

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ちょうど中央あたりに八高線と西武池袋線がクロスする部分がある。周囲は一面畑で何もない。国道299号線の周囲もまだ何も無いのが良くわかる。ど田舎である。

暫定的に八高線との交差部分まで複線化し、笠縫信号所が開設されたのが1969年(昭和44年)10月2日。
自分はこの頃を様子を覚えている。笠縫信号所のすぐ隣(岩沢側)に踏切があり、そこをよく通ることがあったからだ。踏切部分は複線だったが、すぐ横にポイントがあり、そこから単線になっていた。たしか、安全側線付きでレールを曲げて作られた車止めがあった気がする。
1979/11/20(昭54)撮影の航空写真。これを見ると、もしかしたら踏切部分は既に線路が分岐しているような複雑な線形だったかもしれない。
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=987869

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平成になる頃(1989年頃)、八高線の築堤と高架部分が工事されて改良され、八高線側がコンクリート橋になり、複線化が可能になった。このタイミングで笠縫信号所が西に移設され、実際に存在する地名としては川寺になり、西武鉄道の飯能変電所付近まで複線化された。これが1989年のことで、2代目の笠縫信号所らしい。

これより前から笠縫側は川寺というか西武鉄道の飯能変電所付近まで、西武鉄道がかなり大きい規模で既に土地を確保していた。自分の記憶では急に広がった土地が鉄道用地になったなというか、上下線がやけに分かれて広々と確保されているな、という印象だった。
実はこれが、飯能短絡線と関係するのである。

西武鉄道は1996年まで秩父の三菱マテリアルの工場からのセメント貨物輸送を行なっていた。大型の電気機関車を4両も保有し、貨物列車も結構な頻度であった。
また、1988年からは飯能市と日高市にまたがる武蔵丘に車両基地を確保、拡大し始めた。
この2点から、秩父方面と池袋方面を直接結んで、飯能駅のスイッチバックを通らずにバイパスする短絡線を西武鉄道は計画し、飯能変電所付近から東飯能駅まで鉄道用地を確保した。

実際に短絡線の用地が確保された時期は正確には分からないが、1984/10/15(昭59)撮影の航空写真を見ると、既に変電所脇も含めて用地が確保されており、前述の1979/11/20(昭54)撮影の写真とは明らかに様子が異なる。つまり、1980〜1984年の間で西武鉄道が計画を実行に移して用地買収を行なったようだ。まさにバブル期にかけての時代であり、その時代らしい事業計画である。
当時の飯能市民の間では、特急レッドアローが飯能駅を通らなくなるかもしれず、この短絡線計画に危機感を持つ人もいた。
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1027550

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前述の2代目笠縫信号所付近の上下線が離れていて、用地が広く確保されていたのは、この短絡線と接続する部分であったからである。分岐するためにもう1線分、もしくは2線分の幅などが確保されていたのである。
結局貨物輸送の終了と、時代の変化(都心回帰と高齢化社会による乗客増が見込めない)などの要因があり、この短絡線は実際に線路が敷かれることなく、用地が確保されたまま今も残っている。Wikipedia情報では、西武鉄道としては武蔵丘車両基地のためにまだ活用する可能性もあるため、あくまでも「工事休止」扱いのようだ。

2代目笠縫信号所は、飯能短絡線計画の重要なポイントになっていたが、西武鉄道は粛々と複線化の延伸を進め、1997年にはさらに西へ、川寺の神明神社先の踏切直前まで進んだ。これが3代目笠縫信号所となる。
この3代目が出来るようになるために、いくらかの用地買収と立ち退きが伴った。2代目から8年かけてようやく200mほど進んだのだ。
しかし、まだ単線部分は残っていたので、下り列車の飯能駅到着直前は電車がスローダウンしたり、信号待ちで停車したり、ということが普通だった。
そのためこの3代目笠縫信号所すぐ横の踏切は、電車が来るとなかなか開かなかった思い出がある。

最後に残った区間である3代目笠縫信号所から飯能駅間は、昔から住宅が何軒も建ち並んでいて、用地買収がかなり困難だったと思われる。自分もすぐには無理だろうな、と思っていた。
しかし、西武鉄道は着実に用地確保をやってのけ、なんと 2001年(平成13年)12月6日に笠縫信号所が廃止となり、西武池袋線の池袋〜飯能間の完全複線化が達成されたのである。これは1915年(大正4年)4月15日に武蔵野鉄道武蔵野線として鉄道が開通して以来、86年目の出来事である。

飯能市民にとっては、86年間飯能〜元加治間に単線区間が残っていたわけで、21世紀になりようやく複線化されたのも、なんだかちょっと意外ではある。しかし、今ではもう複線が当たり前となり、単線区間があって笠縫信号所があった記憶は薄れていき、昔話となってきた。

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