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★なぜ、勉強しないといけないの?

お受験系のドラマや映画が好きです。

その昔、『家族ゲーム』という松田優作主演の映画をみて以来、いろんなお受験系のドラマをみてきました。

少し前にドラマ『ドラゴン桜』をみていましたが、今は『二月の勝者』をみています。どちらも原作はマンガなのですが、私はドラマを楽しんでいます。

なぜ、勉強しないといけないのか。

ぼんやりと、私の甥や姪たちもそんなことを考えているのかなと想像して今日は書きます。

偏差値偏狂のお受験ドラマをみていて、あらためて考えさせられます。

なぜ勉強しなくてはならないのか。「それは他人に騙されないためだ」というのは、ドラマ『ドラゴン桜』の作中での言葉ですが、それ以外の理由でも、私たちは学んだ方がいいと思っています。

私が若い頃、常々感じていたのが、自分の頭の中が混沌こんとん(カオス)だったことです。

「自分がよくわからない」とか「人の言ってることが入ってこない」とか、そんなことは10代にしょっちゅうありました。

そんなときに役立ったのは〈本を読むこと〉で、ある程度頭の中の概念を、本を読んで言語化することで、自分が何を求めて伝えたいのかが把握できるようになりました。

また、〈勉強を続けていく〉と、他人の言うことや他人がおこなっていること、世間せけんとか世界とか、それまでわからなかったこともわかるようになってきました。

世界は秩序ちつじょ(コスモス=宇宙ユニバース)を持って動いています。その秩序は私たち個人の頭の中でも必要なのです。

この秩序を、ある人は数学の方程式から、ある人は英語の文法から学び取ることができます。この一連の作業を言語にすると〈体系化する〉といいます。秩序の作り方は人それぞれで、勉強の入り口はどこからでもいいのです。

モノごとを体系化できるようになると、「自分がわからなくなる」ことはなくなります。

人間というのは好む好まざるに関わらず、生まれ落ちたときから社会的な生きものです。生まれてすぐに立ち上がることもできなければ、1人で食べ物を口にすることもできない、誰かの手を借りなければ生き延びることができないため、これを社会的生きものといいます。

無事に自分で食べ物を口に入れられるように成長し、1人で生きていきたくなったら山にこもって隠遁いんとん生活でもするしかないのですが、そうでなければ私たちは否が応でも社会的であることを周りに求められます。例えば、働くこと、納税することなどです。

それは、支え合いのできない独居生活者にはとても厳しいこともあります。

このときにモノごとを体系化でき、秩序を持っている人間は冷静に知恵を働かせて問題解決ができるようになります。隠遁生活者ならなおさら自然を相手にすることが増えるでしょうから、しっかりと勉強してモノごとを体系的に知り、自然の秩序を知ることが必要かもしれません。

そして、多くの大人にはわかるでしょう、モノをよく知っている人間は良く生きられるということを。

私がここで言っているのは、モノを知っていることと偏差値の高い大学に入学することはイコールということではありません。

しかしながら、モノをもっともっとよく知りたい人は偏差値の高い高等教育機関に入ることで、その知りたいことの答えが得やすくなるということはあるのです。

残念なことに、高い偏差値の高等教育機関を卒業しても、その人にとって満足な職種や収入を得られていないという人がいるのも事実ですが、それは今がそのような過渡期というだけであって、良く生きられるポテンシャルは十分にあると思っています。

人生には山も谷もあります。堂堂巡りのスパイラルにはまり込むこともあります。それでも、私は思います。

勉強をするということは、秩序を備え、人生をより良く生きられることにつながるものなのだと。

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