とはいえ、、、フツーなことはフツーなまま。
なにも起きていない…っていう感覚を「だれも生まれてもいない」と表現・例えてみたりするのだろうけど、ストーリー性、連続性がない…という
右脳域からの事実。
けれど、おもしろいのは、左脳域からはそのことに気づくことができなかったとしても、左脳と右脳が別々のなにかを見ているわけではなくて、
ここにあるのはこれ・ひとつ…
それぞれの認知や解釈が変わっても
「事実そのもの」はおなじひとつ。
だから、、、
大丈夫「まったくなにも問題がない」
と言っているんだろうなあとおもう。
( 解釈はちがっても、根本的にはぜんぶこれ…だから。 )
たとえば、動物たちは「生きています」が、長生きしたいだなんておもっていないとおもいます。時間の概念もないですし、すべてが、ただ「いまここを生きている事実」だけが起きている。
いまここで危機的な状況があれば、生き物の本能・反応として「生きよう」としますが、それは人間のような「長生きしたい」ではないんですよね。
「いまを生き残ろう」とはしますが、
長生きしたいわけじゃない。
明日のこと(いまここにないもの)についてなんて考えていないので、ただ、ただ「いまを生きているだけ」が起きています。
そういう意味で「まったくなにも問題がない」、、、というのが、左脳域で活動していない生き物のありようなのだとおもいます。
けれど、、、、
左脳域が生み出すストーリー上に生きている
「じぶん」は、そういうわけにはいきません。
なぜなら「ストーリー=じぶん」を生きているからです。
思考上に、さまざまな複雑なストーリー(=思考)が起きている。
複雑な障害物競争のような人生を
生きている思考体験VR「じぶん」
この複雑な障害物競争(ストーリー)にどっぷりつかっている深刻さがある左脳過剰から、右脳域にバランスされていくことで、この複雑さ・深刻さが本来のシンプルな状態になることで軽くなっていく…ってことなのだとおもいます。
とはいえ、、、、フツーなことはフツーなまま。
よく「いわゆる覚者」と呼ばれる人が「 悟りやノンデュアリティで語られている事実が理解できたとしても、我が子が学校に行かせたり、来月の家賃を支払ったり…ということがチャラになるわけではない 」といっていましたが、それというのは、、、
「生き物が生き物として…いまここを生きるという事実はそのまま」ってことなのだとおもいます(そりゃそうだ)
動物たちが生きているのは森やサバンナという「環境」だとするなら、人間が生きているのは「そういう環境」だからです。
そこに食べ物や衣食住があって「生きる活動の場」があるとしたなら、その「環境で生きる」ということが、人間という生き物が生き物として「いまここを生きる」ってそういうこと…となるわけです。
たとえば、、、
「サヤカさん」と呼ばれて
「はい!!」と返事ができる
このような認識が起きている限りは、人間としての営み・ストーリーが完全に「消えてしまう」ってことはないのだろうとおもいます。
ここでは、そういうことがちゃんと起きています。
でも、このあたりも全部チャラになるんじゃないか??というのが「悟りや非二元に期待されているイメージ」としてあるようにおもいます。そして、そこに期待して「いまここにないそれ」を追い求めることが「探究」とよばれているものなのだろうとおもいます。
ウェルカムレイン☆サヤカ https://lit.link/wrsayaka
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