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腑に落ちるまでは「終わらない」から腑に落とす

どこにいてもおなじ=満たされている

…というのは、左脳過剰の日常はコンテンツが中心なのだけど、右脳から知覚される日常は「ここが中心・ここはいつでも変わらない・普遍」だからなのだとおもう。*そんな体感・知覚についておしゃべりした回がこちらです。https://youtu.be/S2Bv9A1dexM


コンテンツは無常、、、


ポジティブ・ネガティブどちらにも固定することはできない、移り変わる、、、それを「固定しよう」とすることは、なみなみ入ったコップの水をこぼさないようにするのとおなじぐらい大変=不可能。

そのことが腑に落ちる=サレンダー


無力さ、どーしようもなさ、
いまここで起きていることの完璧さに
お手上げ=サレンダー、、、

それによって「左脳がにぎりしめていた握力」がゆるんで、
右脳域の知覚が誘発される…のだとおもいます。

、、、とはいっても それもこれも「 ひとつ 」


そうじゃないものなんてひとつもない、それっぽいそれもそれっぽくないそれもこれ・ひとつ、それとこれはない、、、みたいなことをkindle本でも書いているわけで、それがもう「オチ」なんですけれど、、、

それについて左脳・アタマでは「わからない」
なので、あきらめる・サレンダーが起きてこない
→「ないない探求」がつづいていく…

そりゃそうなんです。二元性視点の左脳からは、ワンネスなんて理解しようがない。コトバの意味は理解できても、体感・知覚=腑に落ちるなんてことは絶対におきない…っていうのは、左脳さんの担当は「二元性・それとこれ」なので、

機能が違う、、、そういう機能じゃないからです。


それぞれに機能=役割分担があって、左脳はそれでいいし、
右脳はそういう知覚をする(ように身体的な機能として出来上がっている。)



そういうわけで、、、どーしたって、、、
左脳過剰から右脳にバランスされていかないと、それが知覚=腑に落ちる…ってことが起きてこないようなのですよね(それもそれで全く問題ないのだけれど、、、←よくある非二元・ノンデュアリティな言い回しでスイマセン)

いま、やっていることっていうのは…

この腑に落ちる(左脳から右脳にバランスが切り替わる)ってことが起きないかぎり終わらない

( だから、、、)

ってところの「あれこれ」なのかなって気がします。

それもこれもストーリーでしかないのですが「ストーリーも全体性の機能」として起きているようにおもいます、そしてやはりそれも分けられません。

そのあたりのおしゃべりも動画でしておりまーす!


ウェルカムレイン☆サヤカ  https://lit.link/wrsayaka


ー オープンしました!! ー

脱・自動思考で右脳意識へ!!!悟りとよばれているものを
理解ではなくて「腑に落ちる」を体感していきます。
ゆるっとみんなでワークをとおして体感中です。

三脳バランス研究所




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