私の魂の成長の話 22

再受講した講座は、私にとってはひとつのターニングポイントだった。

1度目は、皆についていくのが必死で全然自分の事を深堀りできていなかった。と言う事に気付く。なんていうか…自分の中に抑圧している事があるんだな。を確認しに行った程度だった。

2度目の受講で、やっと自分の感情の蓋を開ける事が出来たのだ。受講して半年程度たった時の授業だった。テーマは【コンプレックス】

コンプレックスと聞くと一般的に、

・背が小さい。

・太ってる

・声が変

 みたいな自分自身をネガティブに捉えている所。というイメージがあるかな。と思う。しかし、心理学的にいうとちょっと違う。正しくは、様々な感情の複合体の事。(説明が長くなるのでご参考までに↓)

https://www.weblio.jp/content/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

しばしば(スクールの校長)がとある話をしてくれた。内容は個人情報に、なるので割愛しますが…ある一定の条件が整うと、身体的にあるいは感情的に起こるパターンはありませんか?それは、紐解いていくとどこに起因するのでしょうか?と、問いかけられた。

ある一定の条件が整ったときに起こる身体的パターン。と言われて私の頭によぎったのはナルコレプシーの症状である脱力発作。のこと。

・薄暗い蛍光灯の照明

・スンッとした静けさ

・周りに人が居ない

ここまで考えて、ある事を思い出した。いや、あの時の事を忘れた事なんか無かった。気が付いたんだ。

小学4年生の時のこと。性的暴力を受けたことがある。相手は当時通っていた書道教室の先生。もう、70過ぎのおじいちゃんよ。

基本、年子の弟と一緒に通っていたのでそこに一人でいく事は無かったんだけど、その日だけ色々な条件が揃って、その時間、生徒は私は一人だった。

書道だからね。正座でしょ。子供だし、ずっと同じ姿勢は疲れたちゃうから、時折足を伸ばしてマッサージしてみたり。普段からそんな感じだった。

いつもの様に、足をマッサージしていたら先生が手伝ってくれて。(ここまではいつもと一緒。)でも、その手がスカートの中に入ってきて、え?何?ヤダッ。。って避けようとしたら、押し倒されて馬乗りになられてた。

一瞬、自分の身に何が起きてるのかわからなかったよね。この頃の私にはまだ、性的な知識は全く無かったから。と同時に全身に走る恐怖。抵抗してみるも小4の女の子が大の大人にかなうわけなく。

時間にしてみればきっと僅かだったんだろう。でも、あの時の私には凄く長く感じて地獄の様な時間だった。事細かに描写する事も出来るけど、あんまり生々しいのも何なんで、やめとく(笑)

あの時の事を思い出させる条件が揃うと、脱力発作が起きる。

気が付いた時の衝撃といったら!!なんかもう変換出来ない位変な声出てたと思う。あの時、私はあきらかに恐れを抑圧した。

実は、事は最後までなされなかったの。途中で、ストップがかかった。

「守られたのね。」という事をおっしゃってくださった方がいたけど、私が今生で乗り越えるべき、男性に対する恐れや嫌悪感、怒り。を思い出すには、ここまでの体験で充分だったという事なんだと思う。逆をいうと、これ以上は乗り越えられなかったと思う。実際、私なんかより壮絶な体験をされた友人とかもいる。(親から…とかね。)そこまでいっちゃうと、私は壊れちゃったと思う。

神様は乗り越えられない試練は与えない。というから。

あ、話がズレた。

開放された瞬間、着の身着のまま逃げる。とか家に帰って母に泣きつく。とか…。その時感情をしっかり感じてあげられたらよかったんだと思う。でも、出来なかった。

開放されて、衣服を整えながら「もう帰ってもいいですか?」と聞く。っていう(笑)そしたらなんと、もう少し練習してからにしなさい。って。

もう、アホか?って今は思うけど、私はそうした。何故かこの時、この事を親に知られてはならない。という罪悪感が湧き出てきたのだ。

いや、被害者だし!!何故、罪悪感を感じねばならぬのだ!!!

これはもう、【小林絢子】個人の問題ではない。集合無意識下にある何かがそれを感じさせたとしか考えられない。だって、この時の私は性に対する理解が無かったから。あのまま事が進んでいたらどうなっていたのか?なんて分かっていないんだもの。

あの時の体験を思い出して、セラピーのチームの仲間にシェアした。勿論泣きながら。

怖かった。

あの時、感じきらずに抑圧した恐怖を話すする事で昇華してあげたの。話すは放す。だね。

そして、今回1番重要なとこ!テストにでまーす(笑)

それ以来、脱力発作は1度も起きていない!!

病気は抑圧した感情によってつくりだされる。

心と体は関係しているんじゃないか?という気づきが確信に変わった。