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夜明けのジェニー(情念シリーズ②)

弱いものの味方になりたかった。

小児科医を志した僕は、五回生の冬休み、とある地方の総合病院へ向かった。夜間小児科救急の実情を見たかったのだ。年が明けたら国試の準備でそれどころではなくなる。

夜行列車で大きな川の流れる地方都市へ。目的地は、地域医療を支える最前線にして、最後の砦だ。二泊三日、病院の宿舎での宿泊研修は僕にとって冒険だった。

恐る恐る自己紹介する僕を迎えてくれたのは研修担当のタナカ先生。一瞬で人の信頼を勝ち取るプロフェッショナルの笑顔を持ったその先生は、学生の僕を優しい口調で、「せぇんせい」と呼んだ。もちろん僕は先生でもなんでもないのだが。

その日の夜診見学は、僕の他に地元の医科大学生が二人。両方とも女性だった。(小児科は女性に人気なのかしら。)そんなことをぼんやり考えているうちに、診察室の外が不意に慌ただしくなり、発熱の子供が運ばれてきた。

先ほどまで面白おかしく「小児科あるある」を話してたタナカ先生の顔が一瞬真剣になる。泣いている数ヶ月くらいの子供をあやしながら採血し、みるも鮮やかに点滴ルートをとってみせた。

(なるほど。駆血帯は使わないわけだ。患児の手首を自分の親指と人差し指で締めて、手背から採血するのか。)
現場では当たり前のことなのかもしれないが、教科書には乗っていない。全てが新鮮だった。

「CRPが3。一応入院させた方が良かたい。」
採血結果が印字された感熱紙を見て、タナカ先生は穏やかに言う。何もわからない僕は傍でひたすら頷いた。まるで一緒に診断したかのように。

その夜、怒涛のように患児は連れられてきた。タナカ先生はたった一人で獅子奮迅の働き。「最前線のヒーロー」が目の前にいる。気がつけば、午後5時前後から始まった夜診は、もう8時を回っていた。辛抱強く見学していた女学生たちも、帰宅の準備を始めた。

「せぇんせいも疲れたろ?遠くから来たけん、一緒に飲みに行ったらよかたい。地元を案内してくれるようにあの子らに声かけとくけん。」

タナカ先生はそう言ったが、僕はヒーローを見に来たのだ。

「迷惑でなければここに残りたいです。」

時計が12時を回った辺りでようやく子供の波が途切れ始めた。

狭くて雑然とした医局。タナカ先生は白衣のポケットから潰れたキャスターマイルドの箱を取り出し、100円ライターで火をつけると、いかにも美味そうに煙を吸った。

(タバコ吸うのか!)
紫煙を燻らすその姿は戦士の一時の休息をみるようで、見惚れるほど絵になっていた。

「せぇんせい、今日、飲みにいかせてあげれんかったけん、明日はいーいところに連れてってあげる。」

(いいところって、どこだろう?)宿舎に戻った僕はうつ伏せに倒れ込んで眠った。

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「せぇんせいは真面目やけん、こういうとこは来たことなかたいね。これもいい経験やけん。」

翌日、僕はフィリピンパブの前にいた。いかにも場違いだし、できるなら帰りたい。が、ここにいるのは確定した事実。「無理やり連れてこられて、、。」みたいな顔をするのは卑怯だし、失礼だ。僕は覚悟を決め、クリスマスイルミネーションで飾られた入口をくぐった。

大きなステージだけが照らされていて、客席は暗い。薄灯の中で、タナカ先生がキャスターマイルドをポケットから取り出すと、隣に座った女性が阿吽の呼吸でライターを差し出した。(「いつもの女性」なのかな。)小さな炎で、病院にいる時とは違うタナカ先生の横顔が照らし出される。

「ジェニー」と名乗る女の子が挨拶にきた。僕はできる限り体を小さくした。「ジェニー」が座るスペースがない。このままではくっついてしまう。僕の遠慮と、形ばかりの抵抗も虚しく、「ジェニー」は僕に体を密着させた。浅黒い肌。肉厚の唇。嗅いだことのない匂い。南国を思わせる不思議な匂い。嫌ではない。

「この子らみーんな元男の子だけんね。信じられないよね。」
紫煙を燻らせながら、タナカ先生がサラッとそんなことを言う。(そうか、これはそう言う種類のお店なんだ。)相手が元男の子だと思うと、ほんの少しリラックスできた。

それにしても、、、。「ジェニー」はどう見ても可憐な少女に見える。

「エイゴハハナセマスカ?」
「チョットナラ。」

他のお客さんには聞き取れない気安さだろうか。英語では「ジェニー」は雄弁だった。少し愁いを帯びた笑顔を浮かべながら、国の両親に仕送りするためにフィリピンからきて、まだ間もないのだと言った。

<お客さんを接待するにも、言葉がまだよくわからない。英語を話せる相手を探していた。寂しかったから。>

僕は、自分の感情が同情なのか、それとも他の何かか判らないままに頷いていた。そして、隣の「ジェニー」がこの瞬間、少しでも寂しい思いを紛らわせることができればいい、と思った。

(面白いことが言ってあげれたら。心が和む会話ができたら。英語がもっと上手なら。)

不器用に頷くだけの僕を置き去りにして、不意に店内を流れる音楽が、明るいクリスマスソングに変わる。ステージが一際明るく照らし出された。ショータイムだ。

<ここで見ててね。待っててね。>
「ジェニー」はそう言い残して席を立った。

「いいなあ!あの子せぇんせいに惚れとるんよ。」
感嘆の声をあげるタナカ先生。

「ジェニー」は10人近くのダンサーの真ん中で踊っていた。

(一番綺麗だ。)

スポットライトを浴びて、衣装に縫い付けられた銀色のスパンコールが眩く光る。だが、その輝きすらも、「ジェニー」のキラキラした笑顔の前では色褪せて見えた。しかも、確かにその笑顔は僕だけに向けられているように思えた。つい先ほどまで、僕の隣で寂しさを語っていた「ジェニー」と、ショーパブのスターとして、ど真ん中で笑顔を振りまく「ジェニー」。(本当に同じ「ジェニー」なのだろうか。)広いステージの上に、「ジェニー」しか見えなかった。

ズシッ。誰かの重みで、不意に体が傾く。ふと見ると、体格の良い「女性」が僕の隣に座っていた。先ほどまで「ジェニー」がいた席に。その子に上の空の笑顔を向け、再びステージの方に目をやる。もう少し「ジェニー」を見ていたい。

そんな素振りが隣の「女性」を苛立たせたのかもしれない。僕の両頬を掌で掴むと、唇に強烈なキスを浴びせてきた。青い僕は、まるっきり青かった僕は、、<サンキュー>と言ったらいいのか、<オオマイゴッド>と言うべきなのか、わからないまま固まってしまった。

(こう言う時、大人はどうするのだろう。タナカ先生なら、どうするのだろう。)

「大人の世界」では大した出来事ではないのだろう。だが、その時なんだか大事なものを奪われた気がして、悄然とステージの方に視線を戻した。何か様子が違う。空気が変わっている。そう、「ジェニー」が踊りをやめていた。店内には、陽気な曲だけが虚しく流れていた。「ジェニー」の笑みは消え、瞳には先ほどまでとは違う光が宿っていた。情念の光が。

「ジェニー」はステージを駆け降りた。

その時、(ジェニーに怒られる!)と思った。
(ここで見ててと言われたのに。待っててと、確かに言われたのに。)

僕たちの席に走ってきた「ジェニー」は、僕の隣の「女性」に、派手な平手打ちを食らわせた。紛れもない男性の筋力で。その乾いた音が響いた後、店内には僕にも聞き取れない言語での野太い怒号が響いた。英語だったのか、タガログ語だったのか、、、。

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寒空を見上げながら、ジャンパーのポケットに手を入れて待っていると、会計を終えたタナカ先生が出てきて、キャスターマイルドに火を付ける。何本目だろう。

「先生、今日はありがとうございました。何だかすごい経験をした気がします。」

先生は、煙を口からフーッと足元に向けて吐くと、言った。
「せぇんせい。ジェニーが店の裏で待ってるけん、行ってあげて。彼女、泣いてたよ。」

「えっ!?」

「行かんと刺されるよ。」

冗談とも本気ともつかない一言を加えて、タナカ先生は笑みを浮かべた。その笑みの意味は、その時僕にはよくわからなかった。

イルミネーションに照らされた表と違って、路地裏にある裏口は暗い。ポツンとした簡素な灯りの下に、スウェットにダウンジャケットを引っ掛けた「ジェニー」が寂しげに立っている。僕の姿を見つけた「ジェニー」は、不安げな表情を消して笑いかけた。その、決して華美とは言えない服装を、何だか愛おしく感じた。

“Are you hungry?”

“Yes, I am.”

お腹など空いていない。しかし彼女は違うだろう。ずっと働いていたのだから。他に気の利いた英文も思いつかない。

深夜の喫茶店で二人、スパゲッティーナポリタンを食べた。特に美味しいというわけではない。でも、<美味しいお店でしょ?>の問いかけに頷く。

「ジェニー」の国の話を聞いた。残してきた父親や母親、そして幼い弟のこと。どうして女性になる道を選んだのかは、聞かなかった。本当の名前さえも。その事が頭にのぼらなかった。「ジェニー」は、ただ「ジェニー」という存在として、僕の前にいた。それを聞く代わりに僕は、「弱い者の味方になりたかった話」をした。小さい頃好きだったテレビのヒーローの話、そして、小児科医になりたい、ということを。

閉店間際、「ジェニー」は言った。

<これから家に来ない?>

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「ジェニー」の住まいは、六畳間に小さなキッチンがついた木造の粗末なアパートだった。節約生活がわかるようで、<学生だから>とスパゲッティーを奢ってもらった僕は後悔した。壁にはイエス・キリストの肖像が貼ってある。家具は少ないけれど、鏡台はあり、ボトルが大量に並べられていた。

僕はギイギイ音のする粗末なベッドに腰掛け、「ジェニー」の入れてくれたミルクティーを飲んだ。
「ジェニー」もマグカップを持って、隣に座ってくる。お店の騒動で失われた時間を取り返すかのように。また南国の匂いがした。

とりとめのない会話が途切れ、不意にそれは起こった。「ジェニー」が一層僕ににじり寄り、口づけを求めてきたのだ。僕は経験豊富と言うわけではなかった。だが、「ジェニー」の舌が侵入してきた時にわかった。「ジェニー」が求めているのは、単なる口づけではなく、それ以上の行為だと言うことを。

告白しなければならない。僕は聖人君子などではなかった。それどころか、精力を持て余した一匹の雄だった。だから、美しい「ジェニー」に求められて興奮しなかったわけがない。でも、それは唐突すぎた。僕の方にはなんの準備もできていなかった。僕のリビドーの化身の方も、「時期尚早」のサインを送っていた。その時、不意に、「ジェニー」が「女性を選んだ」人であることが思い起こされた。そのような人と親密になるのは初めてだから、事に及んだとしても、何をどうしたら良いのか想像できなかった。そして、悪いことに僕は医学生だった。ゆきずりのセックスが危ないこと、相手が男性の場合はなおさらそうであることを知っていた。

僕は聖人君子などではなかった。自分が可愛かっただけだ。

僕は唾棄すべき詭弁を弄した。風俗に来てるくせに、貞節について風俗嬢に説教している男のように。

<君は気に入った男はすぐにここに連れてくるのか。日本人はいい人ばかりではない。こんな簡単に部屋に連れてきて、性行為をしてはいけない。危ない。そして性急すぎる。>

<誰でも連れてくるわけではないわ。あなたが初めてよ!あなたの事が好きになったから、連れてきただけなのに!>

「ジェニー」は、泣いた。
その涙で、僕は自分の罪を自覚した。

(ここまで来ておきながら、僕は何様のつもりで、、。彼女の、女性としてのプライドまで傷つけて、、。)

泣いている「ジェニー」がこの上なく愛おしく思えた。僕は「ジェニー」を優しく抱いた。抱き合ったまま、何度も口づけをした。

‥気がつけば夜明けを迎えていた。「ジェニー」はそっとベッドを出たが、やはりギイと音がした。

<ひどい顔をしているわ。今からまたお勉強でしょう?>

「ジェニー」が鏡台の上から何かが入ったボトルを取り、僕の顔に吹きつけた。どうやら化粧水のようだ。僕の頬を両手でパチパチ叩いて、馴染ませる。

寝癖のついた髪を手櫛でとかしてくれた「ジェニー」は"You look nice."と笑った。

夜明けのジェニーの笑顔を見た時、僕は思った。
(またここに来よう。最初からやり直すんだ。ちゃんと順番を追って。)

その日の研修、「ジェニー」との間に何があったか、タナカ先生は一言も聞かなかった。

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大きな川の流れるその街を離れる時、一回りも二回りも大人になった気がしていた。その証が駅で買ったキャスターマイルドだった。

数日後の夜、不意に携帯電話が鳴った。

「せぇんせい元気?」
タナカ先生の明るい声に、心が弾む。

「先生こそ、お元気ですか?その節は本当にお世話になりました。」

「せぇんせいはほんとに向いとるけん、ぜひ小児科においで。『ネルソン小児科学』、先生のところに送っちゃるけん。」

「ほんとですか?」

「またおいでね。ジェニーも寂しがっちょるけん。でも、せぇんせい、なんでジェニーとしなかったの?もーったいない。彼女、とーっても上手なのに。」

「!?」

「今一緒におるけん、ジェニーと代わるね。」

その瞬間、わかった。僕と「ジェニー」があの日急速に接近したその理由が。タナカ先生による「接待」。

"How are you?"
「ジェニー」の屈託ない声がする。

" I`m fine."

"Come visit me. I miss you."

"Thanks. Take care."

電話を切って歩き出した僕の頭の中を、答えのない問いが巡る。

タナカ先生の恋人なのか?
だとしたらなぜ、、。
なぜあの「女性」を平手打ちにした?
情念に満ちた瞳は?
見せた涙は?
夜明けまで、僕の腕の中にあった温もりは?

大人になったつもりが、そうではなかった。
だから、何もわからないし、知らなかった。
「ジェニー」の名前すらも。

もうすぐクリスマス。
イルミネーションの中を歩く僕は、潰れかけた箱からキャスターマイルドを一本取り出し、火をつけた。

(了)


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