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私の原点

今日は私と「絵」について書きたいと思います。

私は、幼稚園に入園する5歳まで一人っ子でした。
近所の友達の姉妹が3歳から制服を着て幼稚園に行くのに、
母はなぜか1年しか幼稚園に行かせてくれませんでした。
子どもにかまわない母ですし、記憶にある私は何にも縛られず、
ただ、ただ「暇」だったように思います。
おしゃべりの少ない家族でしたから、言葉の習得も遅くて、
いつまでも言い間違いが多かった。ヘリコプターをヘリプコターとかね。
おもちゃもほとんど与えられない中、3歳くらいからポプラ社の外国の本を翻訳した絵本がたくさんあって、その絵が本格的で素晴らしかった。
文字が読めないのでずっと絵を見ていました。
家の周りの畑や雑草、泥と遊び、家では母が粉の絵の具を用意してくれていたので、ひたすら絵を描いていた朧げな記憶。

そんな暇を持て余した私にとって、幼稚園は人生で最も楽しく素晴らしいところでした。たった1年しか行けなかったことがとても悲しかったのです。     卒園の時に、先生から文集の中で私のことを、
「いつも面白いことを考えている」と書いてもらいました。私のクリエティブな発想をいつも面白がってくれていました。
実は、この時点で私は絵を描いたり、何か想像力を持って制作することに目覚めていたのだと思います。というか、それしかない環境だったので。

「自由」で干渉のない世界の中で自分で自分の時間を過ごしていた幼少期。

そして、小学1年生の時の図工の時間。初めての市の美術展で授業中に描いた水彩画が「入選」しました。
先生から、「本当はあなたの絵は特選だと思うけど、うますぎるから入選だったよ。」と言われ、困惑したことを覚えています。              それなのに、その後、クラスのみんなは作品が返されたのに、私だけ手元に戻されず、校長室の前の壁に飾ってあるというので見にいくと、校長室に来る来客が一番目につく場所に額に入って飾ってあり、小3で転校することになっても返されることはありませんでした。

これはこれでトラウマというか、人生で初めて「矛盾」を知りました。大人がよくわからないという。

特選にできなかった、絵はどんな絵かというと、今でもすごく覚えています。 何せ、植物と遊び、絵しか描いていない幼少期。
私の絵は、花見をしに自転車で友達と河川に行った時の絵で、構図にしても塗り方の技法にしても(うますぎて)習っていないのにつまりは、子どもらしい絵ではないと判断されたのだと思います。
「らしさ」を求められる昭和の世界においては、「子どもらしくない」と。  きっと誰かの手が入っているに違いない、と。

ただ、担任の先生はちゃんと私を見ているだけに純粋に教室だけで描いたもの、と評価してくれて、校長先生に伝えて飾ってくれたんだと思います。
このことは、この歳になってとても鮮明に蘇り、先生への感謝とともに私の原点じゃないかな、と思うのです。
 
つづく


日々是感謝  羊


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