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【エセー】リアル真夜中の恋人たち

どうしようもなく惨めで、自分が世界で一番不幸だと思ってしまう夜がある。昔はほんのたまに、一時期は一年の半分以上夜だけでなく昼も、今はそこまでじゃないけど少なくない日数、そういうことがある。

人は生まれながらにしてそのような気持ちを持ち合わせているわけではない。最初にこの気持ちを知ったのはいつのことだろう。たぶん20代半ばのころ。それまでわたしはずっと研究者になりたいと思っていたし、そうなれるくらいには賢いと思っていた。ある所までは実際にそうだったのだけど、いざ自分が研究室に入り準仕事のようなものをやってみると、無理だということがすぐに分かった。もっと正確に言えば、直感的に無理だと分かったにもかかわらず、努力次第で何とかなるはずだと信じ込み、努力できるだけの胆力を持ち、そのことがかえってわたしを追い詰めることになった。

当時は付き合っていた人がいて、その助けもあり何とかぎりぎりの均衡を保てていた時期もあったのだけど、生来的そして環境的な無理がなくなることはなくて、結局その人との関係も後味の良くないお別れに終結し、夢とか頑張りたいこととか恋愛とかそれに伴う友人関係も何もかもが上手くいかない時期があって、その頃は自分が世界で一番不幸でかわいそうな存在だとしか思えなかった。

そのときの状況について、わたしはあまり人に話すことはない。とりわけ彼との関係に関して、わたしは人にうまく説明をすることができない。長年の親しい友人であった彼との関係はわたしにとって、ほかの何かで置き換えられない受容であったのだけれども、それと引き換えにというか、そこには世間で言われるところの恋愛のお決まりごとはほとんどなくて、数々の文学も歌も自分にとっては別の世界の出来事だった。当時のわたしたちのしていたことは、ほんとうに恋愛だったのだろうか。たぶんそうだと思うけど、実際のところ何がどうなることが恋愛なんだろうか。わたしたちは恋愛が何かということを誰かに教えてもらうことはないし、恋愛の始まりも終わりも完璧に言葉に表して定義することなんてできないのに、なぜだかこれが恋愛だと知っている。知っている気になっていると思い込んでいる。だけどその思い込んでいる恋愛感情は、別の人間の持つ恋愛感情とは違うし、それなのになぜだか恋愛だけは世界共通ないしは人類共通の普遍性を有するものだとされている。わたしは自分の身に恋愛が、というか恋愛のようなものがふりかかるときにいつも、恋愛ってなんだろうと考えてしまう。

ましてや恋愛と結婚は違うと言いだす人までいて、そうなるともう何がなんだか分からない。それならば、わたしはあのとき恋愛ではなく結婚をしていたのか?いや、結婚はしていなかった。では結婚がしたかったのか。それも違う。今も結婚をしていないし、結局わたしには結婚が何かということは分からない。どうして多くの人たちは、恋愛も結婚も言葉できちんと定義できないのにいかにも分かったような顔をして、契約書まで交わしてしまえるのか。こんなことを言うと難しく考えすぎ、人間関係はもっとそのときその時の気持ちの問題だというけれど。じゃあその気持ちってなんなんですか。どこのなにがどうやってどうなる気持ちのことをいうんですか。

今でも昔のことを引きずっているというよりは、その説明できなさをずっと引きずっているように思う。実際にあれ以来、わたしはうまく自己開示ができない。もともと得意ではなかったけど追い討ちをかけて。わたしは自分の感情を晒すことができない、うまい具合に取り出して提示することができない、そのことがずっとわたしを苦しめている。どこにも昇華されなかった思いは、時間が解決する場合もあれば、時間によってかえって熟成され、肥大化し、なにか別の形を得て拡大して行くこともある。膨らんだ自意識は余計に人前に出せなくなってゆく。

誰にも言えない。誰にも通じない。わたしにとってその気持ちを紛らわせることのできる唯一の方法が小説であった。哲学書を試したこともあるけど、中盤くらいまではいい感じに救われているような気にもなるのだけど、終盤でいつも一般化の枠組みに入れずに疎外されてしまう自分が居て、やはりだめだった。小説というのはいつだって個別具体的なたった一つの点でありつづけてくれる。そのことがどうしようもなく救いになる夜があるのだった。

そんな例外的な一つの点として、わたしに寄り添ってくれると信じさせてくれる小説が何個かあった。決して多くはない。むしろとても少ない。わたしは数少ない記憶を何度も何度も繰り返し、擦り切れるまで反芻するタイプの人間で、それは小説に関しても同じなのだった。わたしは数少ないとっておきの小説を何度も繰り返し読んだ。その一つが『すべて真夜中の恋人たち』である。そう、ここまで来てようやくこの本の話をする。いや、この本の感想はここにはない。この本は単なる起点に過ぎない。わたしはこの本を起点にして自分の話をする。

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真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う。
それは、きっと、真夜中には世界が半分になるからですよ、といつか三束さんが言ったことを、わたしはこの真夜中を歩きながら思いだしている。

『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子


最初にこの本を読んだのがいつのことだったのか、そのときどこでなにをしていたのか、いまとなってはもう思い出せない。それなのにあまりにも美しいこの冒頭を読んだときの感覚を、わたしは今でも思い出せる。読み終わったとき、いつかもっとさみしい気持ちになったらまたこの本を開くだろうと思ったことも。

そのあとの人生で何度かこの本を読んだ。この本を開きたくなるくらいさみしく、悲しく、むなしくなることがあった。そして大人になったわたしは、気付けば冬子さんそっくりの生活をしていた。

わたしの毎日はほとんどが部屋の中で完結する。朝、時間が来ると、何度目か分からないアラームが鳴り続けて30分ほど経ったころ、ようやく起床する。洗濯しやすいというだけの適当な部屋着を着て、あわてて顔に化粧水と美容液を塗る。ドライヤーで乾かさずに寝てしまったから、髪の右後ろの一部がちりちりと縮れてどうやっても戻りそうなく固まっている。だが、それをみっともないと思う人もいない。何とか朝の9時前に業務開始のチャットを送り、パソコンの前に座り続けて8時間とか9時間とか、たまに10時間くらい仕事をする。すると、いつ日が暮れたのかも分からないまま外が暗くなっていて、慌ててざっとカーテンを引く。冷蔵庫にあるもので適当に何かを作って食べる。家事などをほどほどにやって動いてみても、部屋の空気は何も起こらないまま停滞して、床から何層にも重なって積もってゆくようだった。せめてもの思いでテレビをつけてみるけど、何時間ぶりに聞こえてくる賑やかな人の声がうるさくて居心地が悪い。逃げ場を求めて同時に本を開いてみると、テレビにも本にも集中できなくなって、そんなことやる前から分かりそうなものなのに、と自分のことまで嫌いになる。どちらも中断してしまった部屋には外からの情報は一切なくなって、楽しいも悲しいも、あらゆる人間の感情が入り込む余地のないこの部屋は、淀んで充満する空気で圧迫され、ドアすら二度と開くことができないように思えるのだった。
わたしの毎日は基本的に人が介在せずに成り立つ。わたしは労働者であり、消費者であるけど、外の世界で起きている何についても当事者ではない。関係者でもない。社会の一員であるはずなのに、ギブアンドテイクの双方向性の中でずっと片側にしか居られないようだった。ギブとテイクを隔てている川を渡れずに、向こう側に行けないままである。

冬子さんもそうだ。『すべて真夜中の恋人たち』の主人公の冬子さん。フリーランスで校閲の仕事をしていて、ずっと家にいて、特に美しくなく身なりを整えるわけでもない。ほとんど人と関わらないまま成立する生活。趣味がない。親しい人間関係もない。自分のことについて話せることがない人。たぶん彼女がいま生きているなら、一日に喋る言葉は「袋いらないです」、「お箸もいらないです」、「カードで」、「ありがとうございます」くらいだろう。わたしもそうだから分かる。

いつからかわたしはこの小説に自分を重ねるようになっていた。こんなに何も持っていない人でも、むしろ何も持っていないからこそ、美しい感情が生まれ、美しい情景がある。冬の真夜中。光たち。触れそうで触れられない光たち。手を伸ばして一緒に光に触れてくれる男性。そう、あの川上未映子が本気を出して描いた世界は、それはもう大変に美しいのである。その美しさはずっとわたしの拠り所であった。人生のある時点からいくつかのこと、たとえば人間関係を広げていくことなど、当たり前のものを持たないことを決めてしまったわたしにとって、冬子さんの居る何もない世界の美しさは救いだった。何度も読み返し、たとえ読み返さなくても、さみしくなったらあれを読もうとずっとよりどころにしたくなるような本だった。

それで先日も読み返した。なんとなくこの本は12月の感じがすると思っていたら、忘れていたけど12月24日がテーマになっていて、人間の記憶力は極めて潜在的かつ啓示的なのかもしれなかった。それで今のわたしはさらに冬子さんと共通点があって、それは私も冬子さんと同じように一瞬とても心が通じた気がしたというか、自分を外の世界に連れ出してくれるのではないかと思った人がいて、それがどこにも着地しない行き場のない失恋をしたこと。わたしも冬子さんも、それは始まりもしないほど短く浅い関係だったし、相手の男性も訳アリというか一般的には魅力的ではなかったにも関わらず、その恋は冬子さんにとっては特別で、きっと彼女はこの先も恋愛をすることはないのだろうと思わせる。そしてそれはまさに、つい最近の自分に起きたことのようだった。それからわたしもお酒がすきで、夜の公園で飲みたくなる気持ちも分かる。冬子さんも魔法瓶の水筒に冷えた日本酒を入れて、昼間のカルチャーセンターで飲んでいて、それもわたしにも………、いやさすがにそれは分からない。そのままカルチャーセンターで寝落ちしてトイレで吐く冬子さん、めちゃくちゃ奔放なことしてはりますね、それで外で飲む用に水筒で日本酒を持ち歩いている、いやなんでやねん、公園で飲む酒がワンカップ大関、吐き気を催す平日昼間のカルチャーセンター…

そこでわたしはあることに気付いた。これは人為的なめちゃくちゃなのである。当たり前だけど、作者が作ったフィクションとしてのめちゃくちゃなのである。

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わたしは自分が小説を書けるのではないかと思っていた。小説で主題になるのは何かしらの決定的な人間的欠落で、それならばわたしは自分をそっくりそのまま別の世界にスライドして移してみるだけで、こんな小説が自分にも書けるものだと思っていた。それなのに、いや当たり前のことだけど、小説というのはフィクションで、それを作った現実の作者がいて、その物語がどれだけわたしの孤独に寄り添い、まるで自分の分身のように思えても、この世界には決して存在しない作り物なのだ。冬子さんは小説の中以上に喋ったり動いたりしない。そしてこれも当たり前だけど、川上未映子は冬子さんではない。冬子さんの考えていることの一部は作者なのかもしれないが、彼女はどちらかというとヌレセパーほんとうはあのヌキテパだろうかーに友達と行くタイプの人だろう。冬子さんにあげたコートの中に入っていた究極のおしゃれレストラン、土を食べるヌキテパ。

作者はなぜあんなにもきれいな世界を書けたのだろうか。それも分かってきた。あれはきっと、彼女の沢山の人間関係と豊かな経験をベースにして、そこから不要なものを抜き取ってそぎ落とし脚色をしたものなのだ。そんなことができるのは素晴らしいことだ。まさしくそれが創作、芸術であり、類まれな才能だ。作者は美しく愉快で聡明、沢山のものを持っていて、もちろんそれは生い立ちの相当な苦労から彼女がつかみ取ったものであることは承知の上だが、少なくとも現在豊かな生活と感性に恵まれた作者が、余計なものをそぎ落として美しい髄だけ残した幻想の世界。不純物はろ過して廃棄する。土のスープは何度も何時間もあく抜きをしてわざわざ作られたもので、あえて土を食べるという行為は人々に一瞬のカンヴァセーシャン・ピースを提供する。ではあの小説は?冬子さんは?健全な人たち、豊かな生活を持つ人たちのカンヴァセーション・ピースにすぎないのか。冬子さんはそもそもこの世に存在するはずのない幻想というか、ドラえもんの野比のび太みたいな、誰も自分を重ね合わせることのない、架空の劣性属性として作られたものなのか。

そうだとしたら。そうだとしたらわたしはここ数年間何をしていたのだろう。この小説に浸っていた気持ちはなんだったのか。これがあるから寂しい夜があっても生きていけると思っていたあれはなんだったのか。なぜ幻想に浸って生きていたのか。もうぬるま湯ですらない。冷たくなっているのに起き上がることのできない湯舟の中にいるみたいだ。わたしは長い間、冷たくなった水からあがれないままでいる。

そのときなぜだか急激な空腹がやってきた。手の震えまではいかなくとも、指先の血液が薄くなっているのがわかる。血糖値低下。酸素濃度低下。わたしは途端に焦りが止まらなくなり、コートを掴んで玄関を出た。エレベーターの下ボタンを押しながら、待っている間に部屋の前の渡り廊下でコートを着る。アパートを出て道路を挟んですぐ向かいにある、普段は割高で避けているコンビニに入り、なんでもいいからすばやく腹を満たせるもの、と思う。できれば炭水化物がいい。温かいもの、温めるだけで食べられる何か。もう15時を過ぎていて選択肢は半分以下になっているが、3-4種類の中から選ぶことはできそうだ。カレーは重過ぎる、スープは足りない、鴨南蛮そば、これでいい。急いでレジに行く。店員は焦る客の対応などには慣れているようで、特に意に介さずよどみない手つきで会計をする。家の前で玄関の鍵を慌てて開けようとするけど、引っかかって回せずに何度かやり直す。それからドアを開けて手も洗わないまま電子レンジにそばの容器を入れ、時間をセットする。コートを脱ぎ、トイレに行き、ズボンを脱いだ流れのまま急いで部屋着に着替える。そばが温まるまであと1分。ランチョンマットを机の上に置き、冷蔵庫からお茶を出してコップに注ぐ。テレビをつける。電子レンジがピポピといいそばができる。わたしは机の前に運んで床に座り、息つく間もなく一気に食べた。まだいける気がする。まだ足りない気がして冷蔵庫を開ける。何もない。冷凍庫を見る。なんかある。いっぱいある。なんでもいいからめちゃくちゃなものが食べたい。そこからフライドポテトを揚げ、揚げつづけ、揚げたそばから食べつづけた。

ようやく満腹を感じられたのは、ポテトを揚げはじめたときから30分後だった。この感覚は現実だった。

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