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【雑】躾のできていない犬

久しぶりに自分のために文章を書く。自分のためというのは、自分が思っていることを書くためということだけど、考えてみれば私の場合は会社員の仕事以外にこうして書いている文章のすべてが自分のためにやっていることなのに、その中で自分のための文章と自分のためでない文章に分かれはじめるのが不思議だ。自分のためでない文章というのは、既存の小説やコントような一定の型を有する作品と呼ばれる種類のものであって、「はい、ここでカット」、「ここで風景描写」、「ここで二人の会話入れよう」といった、人を楽しませ納得させるための構成と結末が求められるようなもののこと。

インターネットの無重力の宇宙に放りだされて遠くに消えていく文章、即ち私のこの文章とは違って、出版されたり形になって人に届けられる文章はいつも目的を持っていて、それは簡潔で端的で明確で一義的に情報を伝えるものである場合もあるし、もっと映像が浮かび上がるような情景を描くもの、会話、展開、思想、比喩、連想、ストーリーそのものであってもいいけど、なんだかみんなちゃんとしていて怖い。一周回って面白くない。詩だったらなんでもありと考えたこともあったけど、詩ですら叙情を伝えるという一人前の目的を持っていて、こんなに目的が氾濫している世界なら、そのうちのいくつかが何かの拍子で分裂して増殖してその空間に留まっていられないくらいまで増殖して止められなくなって雪崩れが起きたりして、私たちはそのまま目的に押しつぶされて殺されてしまうのではなかろうか。

画家のような芸術家だってパトロンの好きそうな絵を書いて、肖像画を書いてあげたりして資産家に取り入って援助を受けて生活していたわけだから、芸術だってほんとうのところは目的にまみれているんじゃないかと考えて絶望する。目的があるのに、いやむしろ目的しかないのに、目的なんかないような顔をして、目的を離れたところにあるすばらしいものの上澄みだけを取り込んで核心には絶対に触れないようにして、大層にわざわざ美術館にまで行ったりなんかして、絵の隣についている小さなキャプションを読んで立ったままで全然頭になんか入ってこないのに一応読んだりなんかして核心も分かっていますよというフリだけしてみて、なんだかそれはとても人間みたい。小さく小さくごまかして大きなところを見ないようにするんだったら、その大きなところから、最初から、全部始めなければよかったのにと私なら思う。

今適当に入ったチェーン店のカフェで目の前にはどこにでもいるような母親と子供がいる。お母さんは子どもがやることなすことケチをつけるタイプの、そういう意味でもありがちなどこにでもいるお母さんで、子がアイスを食べようとしたら「ほら髪の毛に付くでしょう」、Youtubeを見ようとして携帯を触れば「調べものができなくなったでしょう」、動画を付ければ「画面を大きくしてみないとだめでしょう」と「食べながら見たらだめでしょう」と「ママはこういう暴力的なの良くないと思う、違うのみなさい」とが乱立し、動画を見る行為をやめさせたいのか、動画は見てもいいけどその見方がダメなのか、見ている動画の選定がダメなのか、言ってる本人ももう訳が分からなくなって制御できずに疲れきってイライラしているお母さんの様子が何だか他人事には思えなくて注目してしまう。すべてが偉大なる母によるケアで教育で愛情だと説明できそうだけど、本当のところはどれとも違っていて単純にお母さんのキャパがない。お母さんがコントロールできる範疇に子どもはいない。アイスは髪に付く。携帯の画面はアイスでべとべとになる。動画を付けたら大きい音が鳴って周りの人が驚いて振り返る。予想外のことが起こる方がデフォルトなのに、全てをコントロールできると思っているからイライラして疲弊していて、本人は気付いてないけどこれが子供にとっては一番キツい。悪いお母さんじゃないのに本当はすごく悪い。

悪気がないのになんでこう悪くなってしまうかというと、このお母さんは目的をちゃんと把握できてないから。こういうお母さん、どこにでもいるお母さん、それからそこに存在すらしないお父さん方は、家族仲良くとか家族の幸せとか子供の幸せとかを目的にしているはずなんだけど、その目的設定が間違っていて自分の目的に他人を組み込み始めた時点で破綻してる。それから本当の目的からも目を背けている。子どもを持つことなんて親のためでしかなくて、犬猫を飼うのと同じようにただ世話をするのが楽しそうでやってみたかったから以上でも以下でもあり得ないのに、嘘のない、本音すぎる、世間的に聞こえの良くない本当のところから逃げているから、子どもに目的を背負わせて、その嘘を嘘のままうまいことやりきるキャパもないから今を楽しむのもできてなくて、できないなら違う方法に切り替えるしかないんだけど、問題意識はないまま型通りの世間体的にお母さんって子供ってこういうものでしょうを慰みにできてしまうからたぶんこのお母さんはずっとこう。うちのお母さんみたいに。

子供を産んだ人で子供のことを考えて産んだ人はいないというようなことを『夏物語』の登場人物が言っていて本当にそうだと思う。自分のために子どもを産むのなら、せめて自分のことは自分だけで成立する目的で、自分の責任で満たされた状態にしておけよと私は思うし、それができない人間は子供を持つべきではないと思うのに、子供を持つ人は大抵そんなことを考えていない。無根拠の突入で始まってしまうしかない他人の新しい人生を、自分の制御下から良い感じに手放すことをできない親たちも一定数存在しているようで、社会とか世界とかの始まった瞬間から一定の割合で負けが決まっているゲームに他人を無理やりに参加させておきながらその自覚がないのはとんでもない人体実験で暴力的な行為なのではないか。

反出生主義の作家さん、あえてここでは名前を出さないが、子供を産む人は子供を産みながら子供を殺しているのだと言っていて、これは高校生の頃に読んだ本でその時はめちゃくちゃな理論に爆笑してしまったが、今考えるとこちらの方が理屈が通っている気がする。それなのに生きているともっと動物的な本能のような、理屈が通っていないことの方が正しかったりして、やはりもっと直感的に理屈など通さないスタンスでいた方がいいのだというなら、やっぱりあのお母さんは破綻した目的のために理屈を無理やりに当てはめようとして、始まりも経過も着地点のすべてが間違っていて、そんなふうに間違っているものだけで構成される物事は一体どこに帰結するんだろう。間違いを必ず一定数はらんでいなければいけないのが世界なのだとしたら、何もかも始めるべきではないのではないかというところに着地する。それ以外に着地できない。

本当はこんなことを書くつもりではなくて、働いている会社の年度末の激しめの人事異動に関して思うところを述べるつもりだったのに、制御しないまま流していると躾のできていない犬をノーリードで解き放ったようにこんなことになる。当初書こうとしていたことをきちんと書こうとすると、途端にそれは自分のためではない文章になってしまう。書ききれなかった出来事や誰にも話すことのない出来事はどこに行くのか。身近な分かりやすいところに着地するんじゃなくてもいいから、いつかどこかに表れてきてほしい。

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