見出し画像

【過去原稿】コルトレーン特集への寄稿──コルトレーンはロックだった!? COLTRANE’S INFLUENCES ON ROCK(2006)

『PLAYBOY』日本版(2008年休刊)は、ときどき硬派なジャズの特集をやっていた。2006年3月号のコルトレーン特集に寄せた原稿をここに再掲する。編集部からのお題を受けて、ジャンルを超えたコルトレーンの影響力を考察したものだ。

今、読み返すと、内容がいささか古くなってしまっているのは否めない。とはいえ、取り上げたアーティストはかなり広範に及び、手前味噌ながらけっこうレアな論考になっていると思う。この内容が、集英社の月刊誌に掲載されたのだから、古き良き時代だったと言っていいのかも。

企画の監修者は、おそらく故・中山康樹氏で、氏のメールアドレスに入稿したはずだ。実は、それ以前か以後か、記憶が定かではないが、僕が氏に原稿を依頼したこともある。生前はそのキャラクターゆえ、ジャズの業界ではいろいろと物議を醸す方だった。私はほんの少し関わりがあったに過ぎないが、「仕事仲間」としては、本当に良い印象しかない。


コルトレーンはロックだった!?
COLTRANE’S INFLUENCES ON ROCK


ジャズ評論家のナット・ヘントフは、その名も『ジャズ』と題された1998年のエッセイで、ジョン・コルトレーンを「新たなジャズの演奏法を創造しただけでなく、それを理解する方法も革新した人」と評し、「この音楽は生きることの謎すべてを包み込んでいるんだ」というコルトレーン自身の発言を引いた上で、「ジャズとは終章のない自伝」と述べている(『アメリカ、自由の名のもとに』藤永康政=訳/岩波書店)。

引き継がれたもの

コルトレーンの音楽は、それを聴く者のみならず本人にとっても、思考させる何か、つまり不断の問いかけとチャレンジにほかならなかった。それは、50年代の後期にハードバップという黄金の形式を完成させ、その後、緩やかに失速していったジャズに代わって、大衆音楽の王座に君臨したロックに、ある程度は引き継がれたものでもある。

感情を宙吊りにする摩訶不思議なロジャー・マッギンのギター・フレーズが重要な核を形成するザ・バーズのシングル《霧の8マイル》(66年)は、コルトレーンの奏法と思想がダイレクトに反映されたロック・ナンバーの嚆矢とすることができる。むろん、文化状況全体がサイケデリックな方向に振れていたこの時期において、表現者のヒエラルキーを設定するのは無意味かもしれない。シーンはいわば灼熱したひとかたまりであり、その意味では、ビートルズやジミ・ヘンドリックスはもちろん、ミニマル・ミュージックのテリー・ライリーでさえも、コルトレーンとはあくまで水平方向にリンクしていた。クリームやグレイトフル・デッドの延々と続く即興ジャムは、後期コルトレーンの冗長ともいえるソロ・プレイと、そのスピリットをたしかに共有していたようにも思う。

カルロス・サンタナに至っては、ジョン・マクラフリンとタッグを組んで、《至上の愛》と《ナイーマ》をカヴァーしてしまった(72年『魂の兄弟たち』収録)。なんともあけすけな敬意の表明だが、ある種のすがすがしさを認めないわけにはいかない。

パーソナルな感情表現に目覚めた60年代半ばからのシンガー・ソングライターのムーヴメントの一部にも、どこかコルトレーンとの共振を感じさせる異才がいた。テリー・キャリアーが2台のベースを従えたのは、明らかにコルトレーンの影響だった。次第にジャズの要素を加味していったティム・バックリィは、もっともフリーキーな『スターセイラー』(70年)を制作していたころ、現代音楽のペンデレツキやリゲティを研究していたという。ペンデレツキらの特徴は「トーン・クラスター」と呼ばれる音塊表現にあり、それはとりもなおさず、細かく音を敷き詰めたコルトレーン独特の奏法「シーツ・オブ・サウンド」にも通じるもので、要するに膨大な情報を圧縮する方法論である。コルトレーンがサックスでやろうとしたことをティムは声でやろうとした、と言われるのはまったく正しい。

父ティムと同じくヒリヒリするようなハイトーンの持ち主であり、奇しくも同じく夭折した息子のジェフ・バックリィは、短期間ながら90年代のロック・シーンで鮮烈な楔を打ち込んだカリスマだった。CDデビュー前の93年のライヴを観たプロデューサーのスティーヴ・バーコウィッツと、そこに同席したハル・ウィルナーは、互いに「あんなにも音が詰まっているなんて」と感激を伝えあったという。躁鬱を激しく行き来し、演奏もたびたび長尺になるジェフの音楽には、図らずもコルトレーンの霊が宿っていたといっていい。

80年代のニューウェイヴからは、ギター・ノイズ・アンサンブルの地平を切り開いたグレン・ブランカの名前を挙げておこう。彼のグループに所属したメンバーには、コルトレーンを信奉した者が多い。のちにサーストン・ムーアはソニック・ユースを、ペイジ・ハミルトンはヘルメットを結成して、ささくれ立ったサウンドをあくまで耽美的に提示し、90年代のオルタナティヴ・ロックを牽引した。

ちなみに、グレンには『アセンション』(81年)と題された名盤がある。コルトレーン一派の狂乱セッションを収めた、あの『アセンション』にひっかけたのかどうかは寡聞にして知らない。グループ表現という共通点はあっても、音楽的にはかなりかけ離れていて、4台の変則チューニング・ギターをフィーチャーしたグレンの作品では、むしろ理性によって冷徹に音空間を構築していく性向が明らかだ。アルバムの原題には冠詞の“The”が付いているから(コルトレーンの作品にはない)、「コルトレーンのものとは違う」と主張しているような気がしないでもないし、ポストモダンな皮肉にもとれるのだが……。

スピリチュアルな拠り所として

90年代以降のクラブ・ミュージックでは、しばしばスピリチュアルな拠り所として、コルトレーンが語られたものだった。音を「素材」と捉える尖鋭ぶりゆえに、クラブ・ミュージックは「新しいロック」として注目されたものの、その持ち味を極めれば極めるほど、一種のニヒリズムを引き込んでしまう。その危うさに、在りし日のコルトレーンを取り巻いていた神話の力を借りて応戦しようとしたのが、新時代の音楽家=DJたちだった。

DJカムは《ワイズ・ワン》をサンプリングし、もともとはジャズ畑のノーマ・ジーン・ベルは自らソプラノ・サックスで吹いた《マイ・フェイヴァリット・シングス》の一節を自作曲に挿入する。ともに墓標のような厳粛さを漂わせるサウンド・デザインだった。鍛えあげた屈強な肉体でエネルギッシュなロックを叩きつけたヘンリー・ロリンズの仕事部屋には、ブートレグ(海賊盤)を含むコルトレーンの作品が多数揃っていたそうだが、ヘンリーがコルトレーンのタフネスとつながっているとしたら、それとはちょうど対になる、コルトレーンのデリカシーへの捧げものが、DJカムらの仕事である。

「強さ」を右足で、「弱さ」を左足で踏みしめた巨人ジョン・コルトレーン。まぎれもなくジャズであり、ロックだったと思う。

(2006年執筆)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?