見出し画像

映画=人生には始まりがある。では終わりは?『瞳をとじて』

ビクトル・エリセの久方ぶりの長編。プロモーションのコピーには「31年ぶり」とあるが、それはドキュメンタリーの『マルメロの陽光』からであって、純然たるフィクション作品としては、『エル・スール』から41年ぶりとなる。変化の激しい現代において、まさに異例のインターバルだ。この間、実際のところ製作上のさまざまな苦難もあったようだが、この時間の経過はエリセにとって無駄ではなかった。本作を観れば、それが容易に理解できるだろう。

本作の主人公は、引退した元・映画監督ミゲルである。いや、引退という言葉はあまりふさわしくないようにも思える。作中の雰囲気では、撮るのを断念した、諦めたという感じだろうか。エリセがインタビューで語っているところによると、この人物に自分自身を重ね合わせているという。とはいえ、「しかし、彼は私より、ずっと歌がうまい」といったユーモア(おそらく!)にも表れているように、当然のことながら100%一心同体ではない。ミゲルは映画を撮るのを止めたわけだが、エリセは数十年の時を経て、169分にも及ぶ静謐にして深遠なドラマを作り上げた。

22年前、映画の撮影中に失踪した主演俳優のフリオ。監督のミゲルとは長い付き合いの親友でもあった。ミゲルはその失踪事件を追うテレビ番組から出演依頼を受け、了承するが、それが報酬目的であるのは端々にうかがえる。作家に転身してしばらくは順調だったものの、しだいに零落して現在は翻訳家として細々と過ごすミゲルには、経済的に悪くない話だった。しかし、彼はここで否応なく自身の過去と向き合わざるをえなくなる。当時のフィルム缶や小道具を漁りに、貸し倉庫へ赴くところから、物語は極めて静かに動き始める。

(C)2023 La Mirada del Adios A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.

しかし、契約どおりに番組への出演は果たすものの、ミゲルはある種の虚しさから逃れられない。番組の冊子(台本?)をゴミ箱に放り投げ、貸し倉庫から持ち出した衣装のコートも街角のゴミ捨て場に放置する。放映された際も途中でテレビのスイッチを切り、観るのをやめてしまう。自己嫌悪のなれの果てに、やはり過去は過去として、いったんは閉じられてしまうわけだ。

海辺の町の砂浜沿いでトレーラーハウス住まい。翻訳の合間に畑仕事をし、仲間の漁を手伝う。隣に住む若夫婦との交流には心温まるものがあるが、ミゲルの生活は、清貧というよりは、うらぶれている。あるとき、地主から立ち退きを迫られていることが示唆され、この生活も永遠ではない、ずっとここにはいられないという状況の中で、次の幕が開く。

人は、過去と向き合わざるをえない。それはもう宿命のようなものだ。ミゲルは、旅先でこそ過去と向き合うことができる。番組出演のために滞在したマドリードのホテルでも、フリオらしき男がいると聞かされた高齢者施設でも、それは変わらない。高齢者施設には、連泊を希望して認められる。そこに一定期間、泊まる(留まる)ことがどうしても必要だったからだ。

高齢者施設でミゲルがフリオと接触するプロセスに、心打たれる。まず訪問者として高台から見下ろすロングショットで作業に勤しむフリオが小さくとらえられる。彼がいないうちに彼の住まう小屋に侵入して持ち物をチェック。そして、施設の職員や他の入所者を交えた昼食の場に同席する。徐々に距離を縮めていくのがいい。

面識ができた後のエピソードも、ことさら派手ではない。同じ歌を歌い合える。船乗りなら知っている紐結びができる。そんな共通の経験から、一歩ずつ過去に近づいていく。

(C)2023 La Mirada del Adios A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.

ラストシーンには、言葉を失った。閉館した映画館で未完成作の試写が行われる。ミゲルがフリオをはじめ幾人かの同席者たちに、席を指定するところにぐっとくる。これが「監督」としての「仕事」だということを示すからだ。スクリーンを見つめるフリオ。スクリーンとフリオを交互に見つめるミゲル。他の者はそれぞれの距離感で、証人の役割を負う。最後、フリオの眼差しの先にあるものとは。

「対話」の映画でもあるので、切り返しのショットが多い。しかし、ここぞというところでイメージ喚起力の強い移動撮影が登場する。スローなパンはまさにエリセの刻印。件の高齢者施設において、昼食時の食堂内部を右から左に横移動で写し、ミゲルたちのテーブルまで行きつくと、今度は手前にカメラが後退して、彼らの食事風景の全容をとらえるL字移動は、とてつもなくマジカルだ。

「映画」についての映画でもある。映画内映画が重要な位置を占めることと併せて、もうひとつ指摘しておきたい。ミゲルが貸し倉庫から引き上げた物品に、フリップブック(パラパラマンガ)があった。機関車が奥から斜め前に向かって進んでいく様子から、映画の始祖リュミエール兄弟による『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896)だとわかる。

(C)2023 La Mirada del Adios A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.

なぜそんなフリップブックが貸し倉庫にあり、なぜミゲルはそれを引き取ったのか。映画の「始原」に思いをはせるミゲルは、明らかにエリセの分身だろう。ちなみに、エリセの長編第1作の『ミツバチのささやき』では、序盤で『ラ・シオタ駅への列車の到着』のオマージュというしかない機関車のショットが登場する。

映画に「始まり」があるなら、いつか「終わり」を迎えるのか。映画というメディアは、リュミエール兄弟の頃から大きく変容を遂げた。本作では、デジタル技術に対する若干シニカルな見方が、ミゲルやその仲間の編集技師マックスの口からこぼれる。確かに、随分前にジャズも死んだし、ロックも死んだ。ヒップホップは死にかけだろうか。ポップカルチャーは今や、累々たる屍の山のようだ。映画だっていつ死んでもおかしくない。というか、1952年にはギー・ドゥボールが映画の死を宣言していたっけ。なんといっても、ニーチェによれば神でさえ19世紀末には死んでいる。

本作は、映画監督が未完に終わった自作にどう落とし前をつけるかの物語でもある。映画=人生はそう簡単に清算できない。映画を、過去を背負うことが、人生である。その道のりの先に見える風景は、ユートピアなのかディストピアなのか。本作において、映画=人生の命脈はギリギリのところで保たれたのではないかと思う。

(C)2023 La Mirada del Adios A.I.E, Tandem Films S.L., Nautilus Films S.L., Pecado Films S.L., Pampa Films S.A.

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?