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臨界パワーモデル(7)

臨界パワーモデルのおさらい

 「臨界パワー(critical power)」とは、運動において無限に保てる理論上の最大パワーです。ランニングはパワーと走速度が比例しているので、「臨界速度(critical speed=CS)」に置き換えられます。CSより下のペースであれば、理論上は永久に走り続けられます。

 これまでの回で述べた通り、CSより遅い場合、血中乳酸濃度や酸素摂取量などは最初変化しつつも一定の値に落ち着き、定常状態のまま走り続けられます。一方、CSを超えると、それらの値は上がり続け、疲労困憊に至って速度を保てなくなります。つまりCSの時の血中乳酸濃度は、「最大乳酸安定状態」(the maximal lactate steady state=MLSS)になっています。

 練習強度の分類として、境界にMLSSと乳酸閾値(lactate threshold=LT)を採用し、MLSS以上を「severe(シビア)」、MLSS~LTを「heavy(ヘビー)」、LT以下を「moderate(モデレート)」とする手法が学術界では定番になっています。それぞれ和訳すると、「きつい」「おもい」「おだやか」とでもなりそうですが、これで定着するでしょうか。カタカナ語そのままの方がいいかもしれません。 

田中希実選手が快走 3連発

 さて今回から、ある日本代表選手の練習をCSを元に分析してみようと考えていましたが、「ホクレン・ディスタンスチャレンジ2020」で田中希実選手(豊田自動織機TC)が3,000mの日本新記録までをも含む快走を重ねているので、彼女の今のCSなどを分析してみます。

 活躍を伝える投稿は下記のとおりです。

 CSを求めるには、フィニッシュタイムが2分~15分で、距離が異なる最低2種類のベスト記録が必要です(出典はこちら)。2分~15分でフィニッシュというと、800m~5,000mあたりとなります。田中選手は7月4日から12日までに800m~3,000mを走っており、今回の分析にはうってつけです。

CS(臨界スピード)とD(予備距離)を算出

 CSを表す式は下記の通りです。

距離=CS(臨界スピード)×時間+D(予備距離) …(式1)

 2分~15分で終わるベスト記録は式1で表せるというのが臨界パワーモデルの示すところです。距離と時間の組み合わせが2つあれば連立方程式となり、CSとDが求められます。今回のように3つ以上の場合は、最小二乗法で求めるとよいでしょう。エクセルを使えば容易に計算できます。この式は一次関数で、CSは傾き、Dは切片です。エクセルにはこうした計算をするために、「slope(傾き)」と「intercept(切片)」というそのものズバリの関数が用意されているので、これを使います。結果は下記のようになります。

コメント 2020-07-13 220409

 田中選手の現在のCSは5.54(m/秒)と算出されました。これが現在の彼女の「永久に走り続けられる最高速度」ということになります。実際には永久というのは無理で、筋肉の疲労やエネルギーの枯渇により止まらざるを得ず、現実的にはだいたい1時間程度が相場だそうです。そのあたりを「良いトレーニング、無駄なトレーニング」の著者であるカナダ人科学ジャーナリストのアレックス・ハッチンソン氏が書いているので、参考にしてください。

 5.54(m/秒)は単位を変えると、400mを72.2秒、1kmを3:00.55秒となります。ご本人の感覚として果たしてこのペースが「永久に走り続けられる」と思えるのか、聞いてみたいところですね。

 ちなみに予備距離については後日お話ししたいと思います。こちらもなかなか味わい深いです。

CSとダニエルズ氏

 最初に述べたとおり、練習においては、CSは強度がシビアかヘビーかを分ける境界ということになります。CSより上だと血中乳酸濃度や酸素摂取量がオールアウトに向かって常時変化します。

 CSより上のペースの練習をメニューに落とし込むとすればインターバルトレーニングであって、疾走部と回復部を適宜調節して、オールアウト近くまで追い込むと効果が上がりそうです。ジャック・ダニエルズ氏はCSより上のペースとして「インターバル」と「レペティション」を用意していますが、この二つに限定されることなく、CSより上であればいかようにもバリエーションが考えられそうです。この辺は自分の体を実験台にいろいろ工夫してみたいところですね。

 CSより下の「ヘビー」の領域の速度だと、血中乳酸濃度や酸素摂取量が一定値に向かって安定します。それゆえに「永久に走り続けられる」とされるのですが、ダニエルズ氏は「スレッショルド」と「マラソン」の2パターンの練習ペースを用意しています。テンポ走とクルーズインターバルはこの領域のトレーニングです。

田中選手の5,000mのタイム予測

 CSとDがあれば、2分~15分で終わる他の距離のベストタイムを予測できることになります。先ほどの(式1)にCSとDを当てはめ、目的の距離を代入すれば、時間が計算できます。

 田中選手の今回の3試合を元に計算すると、5,000mの予測記録は、14:42.02秒と計算されました。この通りならば、福士加代子選手(ワコール)の日本記録14:53.22秒を大きく破ることになります。夢物語ではなく、田中選手の直近の成績は、そう予測しているのです。

 横軸を時間、縦軸を距離にして田中選手の(式1)を示すと、下記のようになります。一番左が800m、以下1,500m、3,000mの記録がプロットされています。きれいに臨界パワーモデルの直線に載っていることが分かります。以上は実測値であり、一番右の点がこのグラフ内では唯一の予測値です。この値は直線に載るように置いたものです。

 さて田中選手の次の5,000mの試合は、7月15日の「ホクレン・ディスタンスチャレンジ2020網走大会」の予定です。7月13日時点の天気予報は晴れ、出走時刻の18時ごろは気温17~19℃、風速2mと否が応でも期待が高まりますね。田中選手の快走を大いに期待したいと思います。

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