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【短編】水平線の彼方(2)

 思いがけず、唐突なノスタルジーが男を襲った。あれは、あの時のカジキだろうか。いや、そんな事はわからない。だが、今こそ決着の時である。
 初めて海に出てから何十年経ったのだろう。普通に考えれば、一尾の魚が、そんな長い間生きていたなどという話はありえないし、聞いたこともない。だが、やつなら。やつならあり得るのではないか。何かがやつを生かしてきたのではないか—。

 細い釣り糸が、奴の口から伸びている。男は急いでその糸を掴み手繰り寄せた。とにかく今は、やるべきことをやらなければならない。漁師なのだから。
 しばらく、巨大カジキは当たりを漂っていた。お互いに間を取り合い、睨み合うようにしていた。時々牽制をかけながら、お互いに、集中しているようだった。空の明るさも、海の異様な静けさも、二人には全く関係なかった。時間と空間は、もはや入り込む隙間を無くし、ただただ二人の周りに佇んでいるようだった。

 あまりにも巨大なカジキは、何度か深く潜っては飛び跳ね、船に波を食らわせた。まるで逃げる様子がない。「怒ってんのか、てめぇ…。ずっと、おれぁのこと、まっちょったんか…!」男は厳しい目つきを変える事なく、つぶやいた。男は何度も糸を手繰り寄せ、銛を突き刺そうと構える、だが、タイミングを見切られる。銛は三度、空を突いた。
 「間違いねえ…。」男は確信した。こいつは、俺の銛を知っている。まるで熟練の剣士同士が、相手の剣先を読むかの如く、カジキは悠々と泳ぎ、その巨大な体を動かしていた。

 そのようにして、いつの間にか半日が過ぎた。空の色はまたも反転した。男は、餌用にとっておいた小魚を捌いて口に流し込んだ。その間も、カジキとの戦いは休戦とはならなかった。しかし、どんな戦にも波がある。男は勝負所を弁えていた。
 「一生かかってつける決着だぁ…。どんだけ長くなっても、覚悟の上よ…。」

 こうやって命のやりとりをする事の幸せを、男は感じていた。そうして、餌用の小魚は一匹、また一匹と消えていく。カジキは確かに、その間に衰弱していった。しかしながらそれでも、やつは隙を見せない。

 三日が過ぎた頃、ついに餌も飲み水も無くなった男は覚悟を決めた。
 「そろそろ、俺は、帰らなくちゃなぁ…。お前さんの居場所でやってるんだぁ…勝たせてもらうぜ。」男は銛を構えた。
 カジキは、その魚影が消えるほど深く潜り始めた。糸はなんとなく、カジキのいる方向へと伸びていたが、どこにいるのか全く検討がつかないくらい、カジキは息を潜めてしまった。しかし、男は微動だにせず構えていた。「かならず、ここからくる…。」

 その瞬間だった。影が見えたかと思うと、カジキは勢いよく船体に向けて突進してきた。カジキの角が男ごと突き刺すほどの勢いで船体にぶつかった。船体を削る音が、海原に響いた。男はそれでも、銛を突いた。勢いよく飛び出したそれは、男の手を離れ、カジキに届いた、がしかし、それは目元を掠めるだけで、虚しくも海の中に沈んでいった。渾身の一振りは、互いを掠め合った。しかし、はっきりと明暗を分けた。
 カジキは、その大きな体を水面に打ち付け、そのままプカプカと浮いていた。何十年ぶりの再会に、とっておきの一撃を放ったカジキは、もうピクリとも動かなかった。
 「確かに、仕返しを喰らったぞ…。何十年ぶりの仕返しを…。」男はそういうと、船体から手を伸ばし、カジキに触れてみようと試みた。しかし、カジキ同様、男も船の中に身を横たえた。

 ボコボコという泡の音が聞こえる。あれだけの巨体がいつまでも、水中に浮かんでいるはずがない…。男の意識も、海の底に吸い込まれるようにして、暗闇に沈んだ。空はまた、その色彩を暗黒に染め、月明かりだけがその最後を見届けていた。

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