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【短編】水平線の彼方(1)

 「さらば海よ、この水平線よ。もうここが最後なんだ。」
 中年を独り身で過ごした男が一人、小さな船の上で大の字で寝そべっている。その船は、島も影もない大海原に漂っている。もうこの船は行く当てを失い、さらには舵も失った。全部本当はあるのに、それを動かす力がどこにもなかったからだ。

 病に倒れた男は、4年前、漁師の職を退いた。この村では、漁師じゃない男は数少なかったが、その仲間入りを果たしたのだった。妻は、「ここが文字通り、潮時なんだよ。さて、明日の朝からはお前さんが朝の味噌汁を作っておくれ」と男を励ましてくれた。男はその3日後から、本当に味噌汁を作り始めた。それから毎日欠かさず味噌汁を作った。そのために、漁師生活をしていた時よりも30分ほど早く起きるようになった。精神的にも安定してきて、妻の看病も功を奏して、男の病気は日に日によくなっていった。しかし、漁にはもう出られないほど、身体的には衰弱していた。
 しかし、そんな妻が急死してしまった。男はその日から3日後に味噌汁を作るのをやめてしまった。そして昨日、いつもより30分遅く起きて、男は船を出した。ずっと持ち主を待ち続けていた船、手入れだけ漁師仲間が代行してくれていた船をだした。

 男は小魚を釣って、それに針を通し、撒き餌をして糸を垂らした。村で一番の漁師だった男はこのやり方しか知らなかった。男の針には、それでももう、一匹たりともかからなかった。そして糸を引き上げると、針から餌が抜け落ちていた。
 男はもう一度同じことを繰り返した。

 何度も同じことを繰り返した。もう何も釣れないとさえ思ったが、男はずっとそれを繰り返した。そしてついに、衰弱した体はその苦労に耐えきれず倒れた。

 男は仰向けになって、もうすぐ明るくなる空を見ていた。次第に光が船を照らし始めた。水上の船の底は、ただ揺れるだけで、火の光は温度を上昇させた。ただひたすらにジリジリと焼かれながら男はそこに倒れていた。必死に腕を動かして見るも、もう踏ん張る力はどこにもなかった。汗がたらたらと、額から耳に落ちていった。
 男は少年時代のことを思い出していた。野球部に入り、チームのキャプテンを務めていた少年時代。初めての彼女との恋愛は初キスに始まり、ビンタに終わった。あれは青い青い夏の日差しが照りつける8月だった。村の夏祭りから一週間後のことだったから今でもよく覚えている。

 日差しがちょうど、真上に差し掛かる。太陽のど真ん中、真っ白い光に男は気を吸い込まれるようにして、気を失った。
 気がつくと、同じ真上の位置に月が昇っていた。あれ、何時間経ったのだろう。そしてここはどこだろう。揺れている、ということはまだ船の上だ。半日中ずっと寝ていたようだった。「さらば海よ、この水平線よ。もうここが最後なんだ」と男は、空を見上げて言っていた。

 初めて、水平線を見た時、男は巨大カジキを引っ掛けた。彼の親父の目の前で、誰も見たことのない巨大カジキと死闘を繰り広げたのだ。最後、なんとか引き寄せたカジキの目元に銛を刺した、だが、その反動でカジキは体をうねらせた。カジキは結局釣り糸を引きちぎって海原に消えていった。その話は、漁村で伝説となった。男の親父は大層鼻を高くした。

 「ああ、もう最後か。あの日のカジキ、やっぱり会えなかったなぁ。でも、おめぇにあえてよかった。というのに、俺が元気になった途端死にやがって。最後まで、立派な女房だったなあ」
 男は、こうなる運命について考えてみようかと思った。それは人生で初めての試みだった。人生や運命について考えるなんて。しかし、すぐにやめて月を見た。月を見て、すぐに諦めてしまった。男は思った。考える必要なんかないと。「やめだ、やめだ。そんなことを今更考えるだなんてなぁ。おれぁ、そんな男じゃねえさ。」
 男はそう言うと、安心した。月や太陽や、運命や人生について考えるだなんて、そんな人生じゃなくてよかったのだ。こうして海の上で寝転び、巨大なカジキと命のやり取りをする人生でよかった。生きるか死ぬかの瀬戸際を常に海の上で過ごしてきたことや、いつも帰りを待ってくれた女房と出会えた人生で本当によかった。

 その時、大きな水飛沫が男の体を濡らした。大きく船が揺れ、男は飛び起きた。寝ている間に回復したようだった。男はそのことに気がついていなかった。しかし、男はもうそんなことを不思議がってすらいなかった。気を失う前、最後に垂らした糸が水面を丸く切り取るように動いている。次の瞬間、男の目の前で、巨大なカジキが弧を描いて飛び跳ねた。わずか一瞬の出来事。衰弱した体であれ、漁師の眼光は確かに、彼の目下に古傷があることを見切っていた。

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