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【短編】水平線の彼方(3)

 男は目を覚ました。まだ、船は大きく揺れている。しかしそれは確かに、不規則に、そして何かにぶつかっていた。男は、ボヤッと目を見開いた。確かに太陽の光が男を焼いていた。しかし、その周りで声がする。
 「おーい、起きた、起きたぞ!」周りが一斉に騒がしくなった。

 男は、若者たちに腕を掴まれながら、起き上がった。
 「一体何があった?」一人の若者がいった。「船が座礁しているのを見つけたが、人が倒れているだなんて。しかも、なんてボロい船だ、あの傷は一体なんなんだい?」
 男は、何を聞かれているのかわからない、というふうだった。

 しばらくして、一人の中年くらいの男がやってきた。
 「おい、あんた、向島の男だろう。こんなところまで流れてくるなんてな。」
 「え、知っているんですか?」若者がきいた。
 「ああ、この船間違いねえよ。でも、どうやってこんなところに…。この島は海を挟んで向こう側にある。川を渡るなんてもんじゃない。対岸って言ったって、水平線の彼方にあるんだからな。」とその男は言った。

 「ありゃ、そういうことかね」と、男はふらつきながら答えた。「そんなら、早いところ帰らな、いけねぇなぁ。」
 男はしばらくそこで水を飲んで休んでいたが、すぐに立ち上がると出稿の準備に取り掛かった。
 「まてまて、おじさん…!」中年の男が言った。「ここからじゃ、どう考えても3日はかかる。何も今行かなくたっていい。連絡ならワイがやっておく。少し休憩しなされ…。生きてるんだ、命を大事にしなさいよ。」
 しかし、男はいうことを聞かなかった。そして答えた。
 「馬鹿野郎。生きているだと?だったら、帰らなくちゃならねえ。漁師ってのはな、居なくなったら死んだも同然だぁ。たとえ一線を超えても、帰らなくちゃいけねえんだよ。」

 そして、男は飲み水だけを彼らから戴き、船を出した。若者が二隻ほど船を出し、男のあとを追った。男は、全く気にもとめずに船を動かしていた。あの島に流れ着く前、海にいる間、糸を垂らす時にはエンジンを切っていたので、燃料は足りると思われた。しばらくまっすぐ進むと、その様子を見ていた若者たちは、本当にこのまま帰るつもりだと確信し、半日ほどのところで、引き返していった。
 それを見て、男はエンジンを止めた。帆を目一杯にはり、風まかせに船を動かし始めた。男は糸を垂らして小魚を吊り上げ、それを食べてから寝た。起きたらエンジンをかけた。そしてまたエンジンを止め、帆を張った。次の日も、また次の日も同じようにして過ごした。男は、口の中を魚の小骨やら鱗やらで、血まみれにしながら、それでも前に進んでいた。

 口の中は、切り傷に潮風が染みるようで、痛みが走っていた。男は、自分が生きているといことを、もうあまり自覚していなかった。ただ痛みだけが、まるで釣り糸のように細々と男の生の実感を繋ぎ止めていた。しかし、何はともあれ死闘は終わり、思わぬ決着を迎えたのだ。そして、もう、海に再び戻ってくる気力も、目的も、野心も男は失っていた。ただひたすらに帰る、ということだけが彼を突き動かしていた。夜、寝ている間、船は波に揺られていた。戦いが終わるまでは不安を掻き立てるだけだった揺れも、今や、安らぎと化している。それはまるで、彼が少年だった頃、いや、ずっとずっと前の、物心つく前の、ぼんやりとした風景を思い出させるようであった。寝ている間、男は自らの母の手に撫でられる夢を見ていた。男は、その風景に溶け込むようにして寝ていた。そして、朝を迎えると、今度は口の中の血の味が、彼を呼び起こした。そして、ようやく船が港に着いたころ、離島の連絡を受けた男たちが、港に集まり、男を大声で出迎えた。

 それはまるで、一国の英雄を迎えるような光景だった。周りの船という船が、彼の周りに寄って行った。それらは全て、男を探すために出された船であった。そして、港には多くの人々が、ほとんど全てと思われる漁師が待っていた。
 しかし、男はその群衆には目もくれなかった。全ての人が彼の身を案じてほっとし、ため息を漏らし、寄っていったが、男はそれらを退けた。
 「わしは疲れた。いやはや、疲れたぞ俺は。帰らせろ。」
 男の跡を、数人の若い見習い漁師が追っていった。男は見向きもせずに家に向かった。家の扉を閉めたところで、若者たちは、驚嘆の声をあげながら、口々に何かを言い、そして引き返していった。

 男が完全に眠りについた後で、ようやく村の人々は船体にある、あの大きな傷に気がついた。すぐさま村の誰かが、男の初船出を思い出し、その伝説について語り始めた。また、傷の部分のあちこちに、何かの魚の皮やら、血がついていることがわかった。それが何かしらの大きな生命によってつけられた傷であることは明白だった。
 「カジキだ…。こいつはすごいぞ。」男たちは口々に言っていた。

 そして、ある一人の若い男が言った。「親父、おれ、今の船じゃなくて、あの爺さんの船に乗りてえ。もし乗れないなら、毎朝の食事を作るとかでも構わねえ。あの爺さんに、話を聞きてえんだ。もしも、それが叶わなくても、とにかく、あの人が生きているうちに、何か習いに行きてえ。それってできえねえか?なあ、できねえんだろうか?こんな傷をつけた船なんて、俺は見たことがねえんだよ。」
 すると、その父親は「俺もねえさ」と静かに答えた。
 やがて、村の人々が家に帰ってしまい、港はいつもの静けさを取り戻した。しかし、その親子は、いつまでもその船の前に座り、話をしていた。空がまた、その色彩を青くして、やがて朝日の眩い白色が雲に影をつけても、彼らはその場を動こうとはしなかった。

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