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【時評】終わらない楽園のための賛歌──『仮面ライダー555 パラダイス・リゲインド』と20年を駆ける本能について


1.ゼロ年代における『仮面ライダーファイズ』

 「仮面ライダー」は、しばしば「仮面」をめぐる物語を展開してきた。

 仮面。正体を文字通り覆い隠し、装うことを可能にするレイヤー。それは外的現実に介入するための武装である以上に、その正体を、内にあるものを秘匿するための膜であり、そしてそれゆえに、仮面ライダーという実存は常にいま・ここの現実から半歩遊離した存在として機能していた。

 いま・ここの──「内」の秩序に留まりながらも、それを裂開させる可能性を秘めた実体。そのようなものとして仮面ライダーはある。とりわけ、『仮面ライダークウガ』に連なる平成仮面ライダーの物語においては。

 『仮面ライダーファイズ』は、そうした主題の極限をかつて描き出した作品である。装うこと、纏うこと。それを主題として取り込みつつ、常にその転倒を試みてきた作品として『ファイズ』はあった。

 主人公:乾巧が、倒されるべき存在であるところのオルフェノクのうちの一体(ウルフオルフェノク)であること。それはかつて宇野が指摘したように、否応なくわれわれに、物語を貫く原理としての交換可能性を突きつける「真相」だった。変身が可能なのはオルフェノクと、オルフェノクの「記号」を埋め込まれた流星塾の元塾生のみである。ゆえに、そのどちらでもない(と推定される)乾巧は特別な存在である。ゆえに、彼は主人公なのだ──。そのような幻想は、ここにおいて破綻する。かくして乾巧をめぐる問い、乾巧の実存をめぐる問いと、それに下支えされたドラマは、オルフェノクをめぐる問い・ドラマへと置き換わる。一人のオルフェノクとしての乾巧と「人間」をめぐる物語は、取りも直さず、オルフェノクと人間をめぐる物語に接続する。この対立項の間を巧は絶えず移動しつつ、その実存をめぐる戦いを続けることになる。

 そうした彼に対置される存在として、木場勇治はいた。

 木場勇冶。ホース・オルフェノク。彼が人間として死に、オルフェノクとして覚醒するところから『仮面ライダーファイズ』は始まる。生存本能から人間を積極的に殺すオルフェノクと、防衛のため、あるいは恐怖のために彼らを殺害する人間の対立。木場は常にそれを問題とし続け、人間とオルフェノクの「共存」を掲げる。しかしその開始点、物語の開始点において、木場は恋人を殺害している。換言すればそれは、共存の不可能性を、彼の身体──オルフェノクとしての身体が体現しているということだ。共存を謡う人間の(擬態としての)身体と、恋人を殺害し、闘争の秩序の中に実存を委ねるオルフェノクとしての身体の差異。それが、ここにはある。

 そして彼は、あらゆるメディアにおいて巧と戦う。奇しくも、オルフェノクという種全体を背負うかたちで。

 テレビ版、劇場版(『パラダイス・ロスト』)、小説版(『異形の花々』)──。ゼロ年代において展開された『ファイズ』の、マルチメディア的な展開のすべてにおいて、木場勇冶は乾巧と対峙し、乾巧は木場勇冶と対峙した。そしてそれは同時に、ウルフオルフェノクとホースオルフェノクの対峙でもある。

 不可能性から出発した「共存」という「夢」をめぐる物語。その極相に位置づけられるものとしての闘争。それは常に、オルフェノクとしての身体を根拠として行われた。

 オルフェノクの身体が、木場勇冶の物語において不可能性を体現するということは先に触れた。それが擬態としての人間身体との間に差異を持つということも。──ここで付け加えれば、そこには闘争のレベルにおいて、ヒエラルキーが存在するように思う。

 本能を体現するオルフェノクと、そうでない人間(身体)。こうした図式を想定したとき、そこにはヒエラルキーを認めることができる。闘争を遂行するものとしてのオルフェノク的身体の優越を。そしてそれは、そうした身体と身体のぶつかり合い、本能と本能のぶつかり合いこそが、『ファイズ』の物語を駆動する、という新たな図式を生成する。

 劇場版においては、本編に先駆けてウルフオルフェノクがその正体を現し、ホースオルフェノクとしての木場勇冶と戦闘した。それは共に変身を解除した後に行われており、擬態としての人間体を拡張するかたちで、オルフェノク的身体は立ち現れる。本能と本能がぶつかり合う。

 そして小説版においては、その図式がさらに先鋭的なかたちで表れていた。その物語の終極において、木場勇冶はいわゆる「激情体」と化し暴走する。そして巧もまた、それに対抗するために、ウルフオルフェノクへと変身し、野性的な──本能的な戦いの末に勝利を勝ち取る。

 それら結末からも分かるように、かつて『ファイズ』は、仮面ライダーの物語である以上にオルフェノクの物語だった。オルフェノクと、それが分かちがたく抱え込んだ本能についての物語だった。ベルト争奪戦や主人公的特権の剥奪などに象徴される、交換可能性にどこまでも覆われた世界にあって、むき出しの本能と絶えざる(物理的・心理的な)闘争の果てに、ささやかで力強い祈りを析出すること。それこそが『ファイズ』であり、乾巧と木場勇冶という、鏡映しの二つの実存が辿り着く「夢の果て」を貫く原理であった。だからその結果が二者の死──乾巧はしばしば示唆に留まってきたが──であることは、その帰着として最も過激だが、最も自然なことであったように思う。死によって彼らの物語は完結し、その構造が交換される。闘争は続いていく。「ジレンマは終わらない」。そのようにして『ファイズ』とその主題は、後の作品へと影響を及ぼしていき──20周年の節目に、新たな物語を紡ぎ出すに至った。

 それは先に触れなかったテレビ本編(と劇場版の、続くシークエンス)の結末──「仮面」と「仮面」の衝突を前面化した物語。「オーガ」の不在を根拠として、「変身」を読み替えた先に生まれる物語。20年という時の果てに、疾走する本能とその「生」を突きつける物語だ。

2.いま・ここにおける『仮面ライダーファイズ パラダイス・リゲインド』(本編ネタバレあり)

 ──さしあたってその「続編」であるところの『パラダイス・リゲインド』に、木場勇冶は登場しない。

 彼を演じた泉政行氏がすでに死去していることが、その主要な理由なのは間違いない。しかし『パラリゲ』に先駆けて書かれた漫画版『仮面ライダーカイザ』に木場を思わせる、非業のオルフェノクが登場し、本作にもしばしばこれまでの作品を思わせるキャラクターが登場している(その一番の例が啓太郎の代替役だろう)ことを考えると、この木場の不在は、意図的なものであったと解釈することができるように思う。

 木場の不在は、オルフェノク的身体の闘争──本能同士の闘争の不在を際立たせる。そしてそれによって、改めて「仮面」の問題が浮上してくる。「仮面ライダー」というコンテンツの基幹をなす問題が。

 オルフェノク的身体──とりわけ乾巧においてのそれ──は、仮面を剥ぎ取った後に立ち現れてくるものだった。仮面が純粋に正体を秘匿するためのものとして置かれていたテレビ本編において、テーマの深層に迫る手続きは常にこの「剥奪」だった。

 だが『パラリゲ』において、剥奪した後に立ち現れてくる「正体」は存在しない。すでにすべての真相は開示されてしまっている。乾巧がオルフェノクであることはすでに自明の前提であり、だからこそ、この映画はまずもって、彼を敵対者として描かねばならなかった。その映画が単なる再演や、自己目的的なノスタルジーの活写に留まらないということを示すために。

 そして『パラリゲ』は、ここに挙げた前提に対して、きわめてアクロバティックな応答を果たすことになる。

 それが「変身」の読み替えだった。回帰リゲインドは、絶対的な時間の流れの中で変質せざるをえない。そしてその変質は、ここにおいて「変身」へと及んだ。

 『パラリゲ』において新しく登場したキャラクターである胡桃玲奈/仮面ライダーミューズは、変身するたびに「恥じらう」。そしてそれは、本編内でしばしば指摘されるように、変身が「脱ぐ」ことと等価のものとして見出されているがゆえに発生する感情だという。「仮装」としての変身ではなく「脱皮」としての変身というヴィジョンが、ここにはある。

 ここにおいて、先に触れたようなヒエラルキーは転倒する。というよりも、読み替えられる。オルフェノク的身体/人間的身体の、優劣関係・ヒエラルキーの上位に、仮面ライダー的身体が置かれるのだ(だから真理をめぐるシークエンスは、20年前の、本能をめぐる手続きとしてここにおいても機能する)。ここにおいて「本質」は──「本能」は、仮面が担うことになる。仮面こそが、ここにおいては本能を表象する皮膚となる(それを表すように、本作において初めて登場するスーツはどれも、遺伝子コードを書き込むような──あるいは、仮の神経組織を立ち上げるような仕方で人間身体へと干渉し、変身を完了させる)。

 だからこそ、ここにおいて重要なのはオルフェノクの身体ではなく、仮面の身体、仮面の実存になる。本質と本能を表象するものとしての仮面は、キャラクターの実存と分かちがたく結びつき、一体化するからだ。

 変身者たち──黄泉の縁から蘇った「復活者リゲインド」たちは、存在を回復するように新しい仮面をまとう。20年という時の流れに対抗するように、彼らは変身する。脱皮としての変身──本能を露出させ、仮面とリンクさせる──を行う。

 ここで重要なのは、その「回復」が同時に「拡張」でもあるということだ。彼らがまとう仮面は新しく、それゆえに、それは単なる再演ではなく、差異をもった回帰リゲインドとして解することができる。

 だから草加はカイザフォンを砕かなければならなかった。回帰に差異を与えるために。その身体が借り物であることを受け止め、しかるのちにそれを(システム・命令の内側ではあるけれども)超克するために。そして彼は新しい仮面をまとう。乾巧がそうしたように。

 だがそれに抗い、巧は新しい仮面をまとうことを拒否する。そしてかつての仮面を──20年前に置き去ってきた仮面を回帰させる。

 差異を拒否すること。過ぎ去った過去の中に、失われた夢の中に、実存の叫びを──本能の根拠を託すこと。それは「復活者」として生きるという暴力に抗う身振りであり(事実、彼らはより上位のシステムの尖兵と化してしまっている)、死者としての宿命を正面から受け止める決断の力強さでもある。

 『仮面ライダーファイズ』は乾巧の死(の示唆)によって閉じられてきた。それは先に触れたように、物語を交換可能性の原理へと開放するための手続きとしての意味をもつ。しかしここに、そのようなかたちでの「完結」はない。その事実は否応なしに、この物語を生んだのが「死」と、その復活であったことを想起させる。

 だからこの物語は「生」によって終わる。生に踏みとどまることで、交換可能性に否を突きつけることで終わりを迎える。それは仮面ライダーというコンテンツがしばしば行ってきたメタ的な「完結」の手続きとも符号するが(『さらば電王』など)、ここにあるのは同時に戦いの永続の予感を抱え込んでもいる、複雑で、それゆえにアクチュアルなエンディングのかたちだ。
 物語が、コンテンツが、終わらないということ。そのゆるやかな絶望を織り込み済みで、それでもなおエンディングを突きつけるということ。その身振りの力強さは、取りも直さず『ファイズ』という作品の力強さそのものだ。

 『パラダイス・リゲインド』。それは失われた楽園に捧げる再起の歌であり、それすらもを終わらせるための祈りであった。20年の節目に、その存在は燦然と輝いている。

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