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【時評】霧と爆燃の時代の果て──『オッペンハイマー』によせて

画像引用元:https://youtu.be/SdHe-JseJfQ?si=K3kemuxx9HYD1Rj_

 数多くのメディア論を記したアメリカの理論家レフ・マノヴィッチが名著『ニューメディアの言語』を刊行したのは2001年。奇しくも同年にはアメリカ同時多発テロ──9.11が発生している。ワールド・トレード・センターのツインタワーが炎を上げて崩壊する様はメディアを通じて全世界へと拡散され、事件そのものは、以降十数年の陰謀論を規定することになる。無論、事件の余波はそうした「不気味な」精神文化の形成にのみ及んだわけではない。2003年のイラク攻撃にかかる世論の爆心地は紛れもなくこの事件にあるからだ。報復の実現。正義の戦争。赤狩り以来のパラノイアが、憎悪が結実した結果として2003年のそれはあった。ニューメディア、と呼ばれる新たな情報のネット、脱国家的なインフラの上部において、それは実現してしまった。

 90年代以降、メディアと非正規戦をはじめとする世界各地の戦闘は切り離せないものとして理解されるようになった。94年のルワンダ虐殺は、諸説あるもののラジオをはじめとするメディアの「言語」が誘因した事態として広く理解されているし、同時期のボスニア紛争もまた、『戦争広告代理店』が示すように絶えざるイメージ操作、絶えざる言語操作によってしるしづけられるものだったという。戦争という極限の現実は、伝聞の伝聞が織りなす、不明瞭な「フォッグ・オブ・ウォー」と呼ばれたベトナム戦争よりもはるかに明瞭になり、拡散していく過程において、加工され編集されうるものへと変じた。

 湾岸戦争は、そうした現実のフレームを生んだ開始点として解することのできるものだ。

 ボードリヤールは湾岸戦争に際して「湾岸戦争は起こらなった」と書いた。これは同戦争がしばしば「テレビゲーム・ウォー」と称されたことに起因している。湾岸戦争症候群をはじめとする数多くの健康被害が位置づけられる境域とは位相の異なる境域──「戦線」の「後方」において、これはメディアの戦争、明瞭で秩序だった、編集された戦争としてあった。

 『オッペンハイマー』が描き出すのは、そうした湾岸戦争以前・・の世界の景観だ。

 湾岸戦争以前。冷戦時代。それは地球を焼き尽くせるだけの熱量の兵器を、二つの超大国が抱え込んでにらみ合いをしていた時代だ、としばしば言われる。それは「歴史」なるものが有効であった時代、「大きな物語」なるものが有効であった時代なのだ、と。『ターミネーター2』の焦土。高熱によって焼き尽くされたフェンスの向こう側の「日常」。そのイメージが、滅びの予兆が、たしかなリアリティをもって存在していた時代。しばしば、湾岸戦争以前はそのように表現される。ここで重要なのは、ある「時代(SCENE)」を評するうえで持ち出されているのが「イメージ」であるという点だ。

 『オッペンハイマー』のファーストカット。水たまりを見つめる大学生のオッペンハイマーのカットに続いて、映画は黒い背景を映し出す。閃光、粒子、そして爆裂。画面はその無節操な光彩に埋め尽くされる。それが「滅び」であることを、われわれは知っている。ファーストカットはそうした、知悉された滅びの予兆を告げるところから始まる。

 ファーストカットに象徴的なように、映画序盤はこうした、オッペンハイマーの脳裏に閃く「イメージ」、「予兆」を、極限まで切り詰められた時間に横溢させることで成り立っている。無論、しばしば映画は戦後へとその視点を移すが、「現代」においてオッペンハイマーが想起する──させられる・・・・・ものの圧倒的な存在感を拭うことはできない。粒子と粒子が連鎖的に反応し、滅びを呼び起こす。励起されるばらばらのものたち。粒が波になり、激震する。カイロス的(主観的)に加速された映画的時間の中で、オッペンハイマーは何度もそのイメージを想起する。

 この映画において、原爆へと連なる理論は「イメージ」として立ち現れる。無論、専門用語の羅列では事態が伝わらない、というのもあるだろう。CG技術を相対化するクリストファー・ノーランのイデオロギーもあるはずだ。けれどそれ以上に、そうした語り口は一つの批評的契機をこの映画に呼び込んでいるように思う。「神話」という契機を。

 イメージとして語られる限りにおいて、オッペンハイマーの脳内に閃く原爆の「理論」は、その後の冷戦時代を規定していた「神話」と相似する。「滅び」の予兆。それを規定する「視える」ものとしての終末・厄災。彼が得ていたのはそのようなものだ、とこの映画は暗に告げる。神話的なリアリズムが、ここにおいて現出する。現実そのものの引き写しではない──イメージに通貫され、規定され、代理表象された世界の姿。それこそが、『オッペンハイマー』がフィルムに焼き付けたものだった。

 そして神話的なイメージの存在は、彼の個人的な生にも影を落とす。象徴的なシークエンスがある。共産主義者の会合に顔を出した彼は、マルキシズムの実践にも理論にも背を向ける。それはスターリンにもトロツキーにも、そしてレーニンにもならないという身振りであり、キリスト教的に言えばテクスト主義的な視点へと自分を収斂させんとする振る舞いでもある。無論、それはあくまでも主義(-ism)の内側において執り行われるものだが、しかし、ここで発されるスペイン内戦というタームは、そうした彼の振る舞いに、暗に揺さぶりをかける。

 イギリスの作家ジョージ・オーウェルが『カタロニア讃歌』において抉り出したように、スペイン内戦とはイデオロギーとイデオロギーの戦闘であり、イデオロギー内の「党派性」の対立が色濃く反映された、自壊的な展開を伴った戦闘でもあった。それはナチ党に支援されたファシストと、ソ連をはじめとする諸勢力に支援されたコミュニストの戦いというだけではなかった。抗争は二勢力間、という意味での〈外部〉のみならず〈内部〉にもあったのだ。それはコミュニストの集団の内部における、スターリニズムとトロツキズムの対立である。

 30年代後半のスペインにおいて、スターリニズムはトロツキズムを駆逐した。義勇兵の国際旅団に参加していたオーウェルはそうした迫害の中、命からがらスペインを後にするが、ここにおいて、オッペンハイマーの振る舞い──「主義」の無謬性は崩壊している。そして塹壕戦の実相も、ピカソが描いたことで知られるゲルニカの空爆も、想起されることは決してない。それは言葉でしかない。原爆の鮮烈なイメージは、ここには持ち込まれていない。

 こうした、主義(を縁どる言葉)と現実の離隔は、この映画を流れる通奏低音としてある。オッペンハイマーはイメージを「理論」に──言葉にしていく過程において、現実感を喪失している。すべてはテクストに還元されうるし、実際にされる。しかしそれが何を意味するか──いかなる現実と対応しているか、ということは体感されない。それは彼の現実感へと侵入しない。この認識の解離、現実の解離は彼の女性関係にも、そして同僚との関係にも持ち込まれていくことになる。

 序盤における「イメージ」は、中盤以降後景化する。時系列トリックは一層複雑さを増し、オッペンハイマーの訴追は核心へ向かって加速する。そしてそこで現出する風景とは、全き「20世紀」の風景、伝聞の伝聞が織りなす、フォッグ・オブ・ウォーの、官僚主義的内幕の風景だ。

 「赤狩り」に象徴されるように、あるいは、「スパイが最も活躍した時代」(*1)というフレーズが示すように、パラノイアックな思惟はかつて地球を覆っていた。ペンタゴンで、クレムリンで、その傾向は寄生虫のように官僚に棲みついていた。無数の関係の網目が、時代のフレームが誘因する神経症的な認知によってたわむこと。『オッペンハイマー』はその風景を、伝記の記述の精細な再現によって活写する。それは核神話の裏面として地球を覆っていたものだ。だから中盤以降のそれは、決して主題的な転向ではない。それは原爆のイメージを下支えする現実の位相としてある。

*1:冷戦時代、60年代を舞台とするステルスゲーム『メタルギア・ソリッド3 スネークイーター』のコピー。

 そうした冷戦期の風景、20世紀的風景の果てに、原爆はその姿をあらわす。閃光と轟音、そして爆炎によって、フィルムの上でその虚構の力を振りまく。だがそれは、虚構のままに──イメージのままに終わってはくれない。無数の死者と被害者(被爆者)の情念を、オッペンハイマーは感受する。ついに描かれることのなかった「戦線」の風景、爆弾が爆弾として機能した境域の風景の、残滓のごときものを、彼は被る。かくして理論に「死」のイメージが入り込む。それは「音」として、予兆として常に提示されていたものではあったけれども、「死」そのものであることは原爆投下の瞬間まで隠蔽されていた。あるいは感受することができなかった。そのためのリアリティーを、彼は喪失していた。

 彼に責任があるとすれば、恐らくはそこにあるはずだ。リアリティーの喪失。イメージから理論へ、という移行の先に、現実を置くことができなかったという事実。言葉を言葉として、視覚を視覚として独立させたままにしてしまったこと。エリートとしての、天才としての外的現実への「適応」において、その種の解離、その種の喪失は致命的になる。そして審問において、この映画はそれを追及する。それはどこか糾弾にも似て響く。現実感への侵襲。しかしそれもまた、「滅び」の、「死」のイメージへと収斂していく。それはどこまでも「イメージ」の内側において処理されていた。

 「イメージ」から始まったものの贖罪を「イメージ」において執り行うこと。その是非を問うことは、僕にはできない。オッペンハイマーがそうであったように、僕もまた、しかるべきリアリティーを喪失したうちの一人だからだ。

 だから彼が感じていたような「予兆」を、僕はもはや無視することができない。終末の神話が有効であった時代──冷戦期は、「虚構の時代」は、20世紀は終わった、と言われる。けれど今、ニューメディア(!)を通して触れることのできる範囲の現実を見る限りにおいて、そうした「予兆」は、「神話」は、まったく終わってなどいないように見える。ロシアがウクライナでの戦闘において核使用をほのめかしている現在、アメリカが「権威主義対民主主義」の対立を強調しつつある現在、グローバル・サウス地域の「民主化」の大義が減衰しつつある現在、極端な原理主義や右翼主義が幅を利かせ、特定の地域を超えて「支持」されつつある現在。ここがある歴史の終わり、ある物語の終わり、ある神話の終わりである、などとは、到底思えない。

 僕らはいまなお神話の中に──20世紀の呪いの中に生きている。

 オッペンハイマーは最後に瞑目する。だがそれは、来る現実から目をそらす身振りではない。彼にとっての現実(の極限)とは常に脳裏にあったからだ。彼は再びイメージの世界へと接続したのだ。より精細な「滅び」を、「予兆」を、そこから演繹される「未来」を見るために。

 それは贖罪の後に、呪いに抗うための身振りだ。20世紀という宿痾しゅくあと向き合うための身振りだ。それはたぶん、われわれに残された最後の「倫理」だ。

 そのような映画として、これはある。

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