見出し画像

忘れられていく死と、遺り続ける痛みについて/「かないくん」(谷川俊太郎・松本大洋)

「きょう、となりのかないくんがいない。」

からりと乾いてはおらず、どこか湿り気を感じさせる冬の空気。色や音がそぎ落とされた挿絵とともに、こんな言葉から物語は始まります。

クラスメイト。『親友』でもなく、かないくんは、ふつうのともだち。でも、もう一週間も休んでる――そしてある日、先生が告げる。

「かないくんがなくなりました」

みんでお葬式に行ったこと。かないくんが作った恐竜も、描いた絵も、まだ教室にある。でも、かないくんはもう、いない。泣いていた友人たちも、普通の暮らしに戻り始める。となりの席は、「まつだくん」になった。

しぬって、ただここに いなくなるだけのこと?

やがて場面は変わり、「この先が書けないんだ」と、【私】のおじいちゃんは言う。絵本作家のおじいちゃんは、来年の桜をもう見られないこと、自分で分かっている。「かないくんって、ほんとうに居たの?」「ほんとうに居たんだ。60年以上経って、急に思い出した」おじいちゃんは自らに近づく死をきっかけに、きっとかないくんのことを思い出した。そして、独り言のように言う。「この絵本をどう終えればいいのか分からない」

「そんなに長い間生きていても、まだ知らないこと、分からないことがあるなんて素敵」と私が言ったら、おじいちゃんが、「ほんとだ」と言って笑った。

おじいちゃんはホスピスに入ってしまった。金井君の絵本、まだ終わっていないのに、と私が言うと、「死んだら終わりまで描ける」と、私の耳元でささやいて――。

友人とのスキー中、メールの着信で祖父の「死」を知った「私」は、真っ白な銀世界の中で、突然ひとりきりになったような世界の中で、始まったんだ、と思う。「終わったのではなく、始まったんだ」と。何故かは、何なのかは、わからないけれど。自分が泣いているのか笑っているのかも、分からないけれど。

「死」という言葉の重みに、みんな、おののく。けれど、実際に身近で起った『死』は、あまりに突然で、あっけなくて、とまどっている間に、相手が確かにいたはずの手触りもかつての日常も遠くなって、新しい日々が、まるで当たり前のように進んでいく―― 

自らの死に向き合う時、遠い昔に弔った友人を思い出し、最後の力を振り絞って物語を紡ごうとした老人は、少年だったその日々、「かないくん」を忘れていく日々にきっとどこかで感じていた罪悪感のようなものを、吐き出そうとしたのか。孫娘に、物語そのものではなく、”いなくなる” 誰にも止められない「死」に向き合うときの気持ちを、自分がかつて感じ、人知れずもがいていた気持ち――正解などない問いに、物語を本当の意味で作品として「描き終える」気なんてなく、ただ、その想い、行動だけを、彼女に見せたい、伝えたいと望んだのか。

【私】はおそらく、生まれて初めて、祖父という身近な人の死に出会った。そのとき何かが「始まった」と感じるのは、すこし唐突に感じるけれど、彼女もまた、これからゆっくりと祖父との日々を忘れていき、自分の日常を生きねばならないこの先の日々のことを――”忘れなければ”生きてはいけないのに、生涯にわたって伴うであろう『痛み』の始まりを、祖父の死を通して知った。おそらく、少年時代の「かないくん」の死によって、祖父自身が生涯、感じ続けたであろう、名前の付けられない感傷と痛みを。

谷川俊太郎さんによる淡々と、そして愛にあふれた言葉の数々、松本大洋氏の画によって生み出された「かないくん」。金井君の姿は、この本を手に取った読者にとって、きっと、"かつて知っていたはずの誰か”に置き換わり、胸の奥にしまいこんだ痛みや温かな想い出に、束の間触れさせてくれるでしょう。とても哀しく重いテーマを、「悲しさ」「涙」「想い出」などの分かりやすい言葉とイメージからは決して切り取らず、だからこそ、一撃のように心に刺さる。

失い、忘れてばかりの日々の中で、忘れてはいけないそれぞれの”何か”について、思い起こさせくれる。この作品との【出会い】こそが、私にとって”忘れられない”ものの一つになるのだと、最後のページを閉じる勇気が中々持てないままに強く感じました。

(了)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?