娘が座り、私は家族を得た。

娘の離乳食が始まり1ヶ月以上。
まずは抱っこで一口。
それからバウンサーでおててぱっちんイタダキマス&ゴチソウサマの歯のないお口でお食事体験タイムを重ねておりました。
この頃は下の歯が2本半分くらい?頭を出しており、主食・主菜・副菜…とまでは行かなくとも、エネルギーになるもの(もっぱら粥).・体をつくるもの(豆腐だったり魚系だったり)・体の調子を整えるもの(それ以外は全部ここで良いことにしてる)程度の3品程度で展開。
そこまで苦手な食材が今のところない、というか私の怠慢で新食材へのチャレンジが完全に停滞(今卵アレルギーチェック中だからっていう言い訳を添える)。
でも「お野菜ペーストそのまま食べさせるより、和風だしと混ぜてとろみ付けたら食べ切るな。」程度のお好みが感じられるようになりました。

でもまだ1回食だし、寝返りはできるようになったけど自分の進みたい方に回転したり這って行ったりしないし、意思表示も分からなければ明確な感情表現もいまいちな絶賛乳児。
夫があやせば比較的笑うけど、私があやしても気分が乗らないとほとんど声出してまで笑わない「自分と母との境界が無い」という紛う事なき赤ん坊。
お腹が空いたら必ず満たしてくれる存在(娘においての私)は、私らで言うところの痒いところを掻く自分の手と同じ扱いらしいです。
たまにハンドクリーム塗ったりするけど、いちいちお礼は言わないのと同じ。
父親は自分と異なる存在だから赤ちゃんなりの社会性で対応するとのこと。

わかってても、夫にきゃっきゃ声出して…うそ。「ぐへへへへぇ〜」「んぎぃ〜っヤッ↑ぎぃ↓〜〜」みたいな声出して笑ってる姿には寂しいもんを感じるわけです。
その声私にも発して?みたいな。まあ夫も百発百中じゃないんで、良いんですけど。

で、そんな絶賛赤ちゃん。
お世話をしないと生きていけない赤ちゃん。
可愛い私の赤ちゃん。
寝たら寝たで芋虫みたいに丸まって可愛い赤ちゃん。

可愛い芋虫。

今日私と夫の夕飯の時にリビングに設置してるベビー布団の上で不満気に半べそかいちゃってて。
退屈なのか仕方ないと、昨日組み立てたばかりのハイチェアに座らせて、まだグラグラだから落ちないようにべピーガードとの隙間をブランケットで埋めて。
同じ食卓についてお夕飯を過ごしました。
せっかくだしお湯で溶かすだけのじゃがいもペーストもあげみたり。

そしたら今までに感じたことのない感覚に襲われて泣きそうになってしまったという、そのことを書きたくて今日はnoteを書いております。前置きがとんでもなく長い。
ここから続く文章ももちろん長い。

赤ちゃんって生まれた時から寝転がることはできるじゃない?寝返りによるうつ伏せは、私の中で寝転んでるの延長線にあるものという認識なのね。
ベビーカーでのおすわりは背もたれにでーんともたらさせて、落ちないようにF1レーサーよろしく5点シートベルトで固定されてるからこれも寝転んでるのと同じ感覚なのね。

でも今日は、娘が、座ってるんですよ。
やや前傾姿勢でベビーガードに上体をもたれ掛けながら(ちょっと色気のあるJKが教室の椅子を反対側からまたがって座るじゃん、そのとき背もたれに両肘ついて気だるそうに喋ってたりするじゃん。まさにその状態で)椅子に座ってるんです。
その時のJKは一般的には短いスカートであろうと思うんですけど、私としては兵庫県内のお嬢様学校のお上品な制服で、でもそれが堅苦しいと言わんばかりのクールでやる気のないタイプを想像したいです。なるべく制服は着崩さず。なるべく口数少なく、けれど人のことをよく見ているような。
びっくりするほど私と真逆な女子高生だし、本当に脱線しすぎ。

話戻して、娘が座ってるんです。
座って食卓を囲んでるんです。

大和屋さんのすくすくプラスというお椅子。
他の家具と相性バッチリ。



木で作られたちゃんとした椅子に座ってる姿を見た時に、なんだか突然娘がちゃんと1人の人間であることに気付いた気がして。
座らせたことで、寝たままの赤ちゃんじゃない姿の第一歩を見てしまって。
これからどんどん赤ちゃんじゃなくなっていく娘の未来が、確実にこの姿の先にあるんだと気付かされて。

頭では考えてたの。
「1人の人間」
「いずれ社会に出ていく、いわば社会からのお預かりもの」
「だから人と暮らしていけるように色んなことを身につけてもらう必要がある」
「その第一歩がきっとおててぱっちんイタダキマスとゴチソウサマだろう」
娘を育ててる中で、そんなことは考えていたけど、でも自分の考えの範疇でしかなかったんだよね。
私の考えだから、私が主体。
自分目線で娘を見てて。自我は自分の脳から飛び出していかないから、完全に客観的に物事を見るのは無理なんだろうけど。

というか、首も座ってない赤ん坊を見ていきなり社会に出ることを基準として考え始めてたから、漠然としすぎてたっぽい。

座らない子でも座れるようにサポートしてあるバンボとかじゃなく、今後(べビーガードを外せば)小学生でも座れる椅子に座ってる娘を見たことで、娘は乳児から幼児への発展途上にあるんだと気付かされた。
改めて娘の未来を、今度は具体的に想像してしまって。

楽しみなような、寂しいような。
そのうちもっと安定して座れるようになるんだろうな。もうそんなところまで来ちゃったのね。
いつまでもねんねでいてほしい。
でもどんどん赤ちゃんじゃなくなってく。
そのうち同じテーブルで同じものを食べ、同じ経験を共有して、娘に起きた喜びを全員で喜ぶ。

つまり、いつまでも「私の赤ちゃん」のままじゃない。
いつかは自立していく1人の人間であり、私から切り離された一個人としての存在を感じました。

なんで私が泣きそうになったかっていうと、いつまでも私の赤ちゃんでいてほしいけどそれが叶わない寂しさっていうのは、確かにある。

でも今日の泣きそうになった理由はそこがメインじゃなくて。
私は自分の暮らしを「夫婦+赤ちゃん」という構成で捉えていたんだと自己分析できたんだけど、私たち3人が既に家族なんだと気付いたこと。
嬉しいような、誇らしいような。温かいような。
娘をちゃんと個人として尊重できるのかどうかという不安もある。

ただただ娘が座ってるだけのことなのに、頭の中でビッグバンが起きたような衝撃。
子育てって本当に面白い。イラつくことも投げ出したくなることも、夫が本気で腹立たしくなることも連発する。
子育ては得られるものは少ない。
気力、体力、精神力、金銭、時間、自由…独身時代に有った物は全て奪ってくる。

でも具体的に説明できない物凄いものをガツンと頭の与えられる。
ご覧の通り頭の処理が追いつかないほどの衝撃を伴って。
ただ娘が座っただけで、家族を得た。
子どもを産んで、本当に良かった。



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