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書評『男性の性暴力被害』(宮崎浩一・西岡真由美 集英社新書)

男性の性暴力被害の問題は、女性の性暴力被害、そしてそれを問題化してきたフェミニズムと切っても切れない関係にある。

男性の性暴力被害の問題は、女性の性暴力被害が社会的に問題化されていく過程で、ようやく光が当てられるようになった領域であるため、女性の性暴力被害と同じフレームワーク=ジェンダー論やフェミニズムの言葉に基づいて語られる。男性は、女性たちが作り出した言葉や理論を借りて、ようやく自らの被害や経験を言葉にすることができるようになった。

一方で、男性の問題であるにもかかわらず、女性たちの言葉でしか語れない・語られないがゆえの問題も孕んでいる。

男性の性暴力被害を問題化することは、「女だけが被害者ではない」「すべての男が加害者ではない」といったアンチフェミニズム的な主張を強化する材料として利用される=利敵行為になる可能性があるため、「フェミニズムを経由してしか問題化できないテーマであるにもかかわらず、フェミニズムの中でも問題化されにくい」という難点があった。

男性の性暴力被害というテーマを扱うためには、フェミニズムの世界における「作法」を理解した上での発言が求められる。「男性の性暴力被害を扱っているからと行って、現代社会における男性の特権性や加害性、性差別構造を軽視しているわけではない」といった、長い枕詞=言い訳を付与することが必要になるわけだ。

もちろん、現代社会では男性の側に特権性があること、加害性を発揮しやすいこと、そして理不尽な性差別構造が歴然と存在することは事実である。ただ、フェミニズムはあくまで女性の権利擁護を主目的とした思想であり、フェミニズムと同じ視野、同じ文脈に乗せるだけでは、男性の性暴力被害は十分に理解・支援できないのではないか、という懸念は残る。

確かに、ジェンダー論やフェミニズムの言葉や蓄積を活用すれば、性暴力被害が問題化されづらい理由や、その背景にある社会課題について、もっともらしく説明することはできる。「男性は、自らの被害者性を認められない」「現代社会は、男性の性被害を矮小化する傾向がある」などは、まさにその通りである。

しかし、実際に被害に遭って苦しんでいる当事者にとっては、そうした説明は、多くの場合、何の慰めにもならない。「説明できること」や「問題化できること」と「本人が実際に感じている苦しみを減らすこと」の間には、大きな断絶がある。

性被害の体験は、非常に個別的かつ個人的な経験である。そうした経験を言語化する上での選択肢が、異性の言葉=特定のジェンダー観に基づいた言葉しかない、という状況は、お世辞にも健全とは言い難いだろう。

男性の性暴力被害を始め、男性の性に関する問題は、男性自身が言語化を怠ってきたこともあり、女性の言葉を経由しないと問題化すらされない。その意味で、男性の性暴力被害を現代社会のジェンダーにまつわる現状と照らし合わせながら考えることは、課題解決のための「必要条件」ではあるが「十分条件」ではない。

男性学も含めて、男性のセクシュアリティを考える営みの出発点が、特定のジェンダー観や思想信条に依拠したものになることは避けられないが、データや当事者の声が蓄積されていく中で、そうした既成の女性の言葉を借りなくても、男性の言葉で語られるようになれば、被害者の苦しみを減らすために必要な、より深い理解や支援ができるようになるのではないだろうか。

その意味で、本書は男性の性暴力被害を考える上での「必要条件」を網羅し、その先の「十分条件」を考えていくためのきっかけとなる良書だと言える。

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