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宿り木

 バーの入口に窓が無く、厚い扉で仕切られている理由は、外界との隔絶を意図としたものであるからで、ひと度、店の中に足を踏み入れてみれば、仄暗い照明に長いカウンターと、その向こうに奥ゆかしく佇むバーテンダーがいるという景色は、大なり小なり何処でも同じはずで、初めての客であったとしても、取り立てて迫害される訳でもなくて、好みの一杯でも頼めば、愛想の有る無しはともかく、丁寧に磨き上げられたグラスに美しい色合いのカクテルないしウィスキーが、折り目正しく注がれるはずである。音の無い店もあれば、ジャズないしクラシックの名曲が、邪魔にならない程度の音量で流れている店もあるだろう。いずれにしても、そこは、厚い扉の外の世界とは、仮にそれを日常と呼ぶのなら、一線を引いた、非日常の空間に演出されていて、客の方でもまた、つまらない一日をリセットし、アフターという自己の世界に回帰陶酔する為の、洒落た言い方をするならば、トワイライトゾーン、味気ない言い方をするならば、リハビリ施設としてバーを認識しているはずである。だから、始まりに戻って、バーの入口に窓が無く、厚い扉である理由は、何も一見いちげんを謝絶している訳でも、オーナーが禁酒法時代を真似ている訳でもなくて、日常という飽き飽きした世界と明確に一線を引く為の演出に他ならない。仮に、こうした事情を知らない向きには、きっとバーは敷居が高く、単身で訪れてみるには、勇気の要る場所であるに違いない。

 年齢はただの数字、肩書はただの文字、とは常々言っていることだけれど、かつては、手前勝手にバーとの付き合い方に年齢という線引きを設けて、創作料理とかいう得体の知れない食事を出すカジュアルなバー(もどき)ではなくて、オーセンティックなバーと言う所は、二十代では独りで行ける場所ではなく、三十代になって入店が許され、落ち着いて座れるのが四十代、五十になって、ようやくマスターと対等に口が利ける世界だと思っていた。もちろん、そんな都市伝説まがいのルールなど根拠も何も無くて、流石に十代はいただけないけれど、たとえ二十そこそこの若者であっても、ラフに過ぎない服装で、礼節(言葉使いと身のこなし)をわきまえ、酒の適量を知っているのであれば、男女を問わず、誰でも温かく迎えてくれるはずで、むしろ、若者がきちんと呑んでいる姿は美しく、また頼もしくさえある。

 だから、何でも形から入る、かつての自分がそうであったように、何でもルールを作ってしまう日本人(だけなのだろうか?)の悪い癖で、巷には「バー入門」とか「はじめてのバー」とか言う手引もあるようだけれど、確かにバーという所は、始まりで言ったように、厚い扉に閉ざされた空間で、新聞の折込に広告が入る訳でもなく、経験したことの無い向きが、路地裏に灯る小さなネオンを頼りに足を踏み入れるには、緊張を強いられたとして致し方無い。だから、そういう時は、いっそホテルのバーから始めてみることをお勧めする。もちろん、自前のバーを持っているようなホテルは一流だから、都心ならカクテル一杯に数千円という相場になるけれども、そこは勉強代だと覚悟を決めて、ホテルの看板で営業している安心感と、場慣れ(バー慣れ)していない向きの客あしらいにも長けている点を考慮すれば、決して悪くはない選択肢で、「初めてのバーなんです」とでも言って教えを乞うたなら、きっと喜んで手ほどきしてくれるはずである。そしてこれは、バーに限ることなく、どのような店でも言えることだけれど、ひとしきり慣れた頃には、スタッフがお勧めする他の店を教えてもらうことである。酒も含めての食のプロである店のオーナーなりスタッフが、休みの日に自腹で食べに(呑みに)行くような店というのは、これは経験上、間違いは無くて、とりわけ、こちらの好みまで熟知しているスタッフに教えられた店というのは、過去に外れたことが一度も無い。そうやって、場末の地下にあるような小さなバーでも、その道のプロに聞いて敷居を下げ、何処の誰それから聞いて来たとでも言ってみれば、決して一見いちげんの扱いではなく、それなりにもてなしてくれるはずである。

 大切なことだから繰り返すけれども、バーに決まり事など何も無くて、極端な話、これは経験から、初めはメニューすら読めなくとも(もっとも、メニューの無いバーも多いが)、甘いとか、青いとか、逆三角形でなく細長いグラスでお願いしますとか、その程度の言語能力、バーテンダーとのコミュニケーションが取れるなら、決してバーは恐ろしい場所ではなく、言わずもがな、深酒をしない、騒がない、グラスを空けたままで長居しない、などというのは、ルール以前の、マナーの話であって、それはバーに限ったことではない。時々、バーへ行ったことの無い向きから、独りで行ってもが持たないでしょう、などと聴かれることがあるけれど、それは、バーでの過ごし方を知らないから言えることで、実は、バーという所は、酒を呑みに行く場所ではない、という逆説的な事実を知らなければならなくて、それならば何をする為に行くかと言うと、時間を使う為に行く。だから、バーという所は、とてつもなく贅沢な場所でもあって、ほんの少量のカクテルやウィスキーの為に高額の代金を支払い、お金では買うことの出来ない貴重な時間を消費する(浪費ではない)、それがバーという場所で、仮に酒を呑むことを目的として出掛けるつもりなら、居酒屋へでも行った方がよほど良い。想像するまでもなく、一杯のグラスなどひと口で呑み干してしまうはずで、確かに、呑むことを目的に行くのなら、とても独りでは場が持たなくて、バーでの過ごし方というのは、時折、酒で口を湿らせつつ、ただ時の流れに身を任せる、思索を巡らせるというのが流儀で、決まり事が無いとされるバーの、暗黙の決まり事らしい決まり事と言えば、それが決まり事になるのかも知れない。だから、間違ってもショットグラスを引っ掛けるように、そのカクテルなりウィスキーを、ハイペースで呑むような真似事は慎むべきで、そんな事をしていたら、懐の心配はもとより、たちまち泥酔して追い出されるのが関の山である。

 ドラマだか映画の見過ぎで、バーという所は、男が女をくどく、あるいはその逆に女が男を、といった連想をする向きもいるけれど、元々は独り、自分と向き合い、自分と対話することを目的に、そのが愉しめるように造られている。だから、バーテンダーとの会話をすら最小限に抑制して、煌めくグラスを、あるいはランタンのゆらぐ灯を見つめながら、静かに内省する場所がバーなので、それは本を媒介として著者と、あるいは自分自身と対話する図書館の役割に近いとも言えるだろう。そうやって自己を、一日ないし一週間を振り返り、来るこれからの日に想いを致す、濁流のように慌ただしい日常の宿り木として、立ち止まる為の空間がバーなので、それは乾いた日常のオアシス、殺伐とした現代のシェルターと言っても良いだろう。だから、バーの扉には窓が無く、厚く頑丈に出来ている。

 バーを訪れる為には、何の免許も要らない。若過ぎるからという理由で臆することも、酒が呑めないという理由で諦めることも無い(ノンアルコールもフードも用意されている)。ただ、敢えて付け加えるならば、を持たせるすべ、思索の為に時間を使うすべは心得て置いた方が困る事はなくて、何をするでもなく、静かに流れてゆく時間を愉しむことが出来るとしたら、バーという所は、決して緊張を強いられるような場所ではなく、社会の煩わしい雑音を遮断した心地良い空間へと変わるだろう。さて、今夜は何を呑もうか、もとい、どんな想いを巡らせて時間を使おうか。陽が落ちて、そろそろ行きつけの灯が点る頃である。

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