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時間

 ありふれた冬の一日に、元旦という役割を与えたから、その日は特別な一日になり、それから三百六十五日(今年は三百六十六日)経った、やはり何の変哲も無い冬の一日に、大晦日という役割を与えて、その日を特別な一日にしたことで、一年の始まりと終わりが決まり、同じように、ありふれた真夜中の瞬間に、零時という役割を与えて、二十四時間経った、やはり何の変哲も無い真夜中の瞬間に、また零時という役割を与えたことで、一日の始まりと終わりが決まる。そういう当たり前の決まり事が、いつの間にか決められて、誰も疑問に感じる事も無く、その決まり事に縛られて、ある向きは寝坊をしたと飛び起き、ある向きはその決まり事を節約する為に、鈍行ではなく、特急に乗らなければならなくて、割増料金を払う羽目になり、またある向きはその決まり事を忘れたばかりに、待たされた相手から愛想を尽かされる。この星の、あらゆる生き物が、そんな決まり事を持たないお陰でのんびりと暮らし、気の向くまま目を覚まし、腹が空いた時に食事を済ませ、眠りたい時に眠るという、ごく自然な、当たり前の、そう在るべき暮らしを営み、その決まり事に関わるストレスなど微塵も感じる事も無く、大らかに生涯を全うしている。言うまでも無く、その決めなくても良い決まり事をつくり、慌てなくても良いのに慌てさせられ、腹も減っていないのに決まりだからと食べて肥満し、決まりがあるから眠ることも許されずに欠伸あくびこらえているのが、その生き物の例外である「ヒト」で、その決まり事というのが「時間」である。

 時間と言っても、流れ、過ぎ去ってゆく、物理学上の時間ではなくて、その移ろいゆく時間のある瞬間に「何時何分」という名前を付けられた「時間」を言っているのであって、それは元旦や大晦日と同じように、名前を付けられたばかりに役割が与えられ、ある向きにとっては九時が始業時間という意味を持ち、ある向きにとっては十二時が昼休みの始まりを指して、影も形も無く、色も匂いも付いていない、その九時の為に、ヒトは目覚まし時計をセットし、年甲斐も無く全力疾走して閉まりかけた電車の扉に駆け込み、車掌から叱られる。だから、あらゆる生き物の例外とは言ったけれど、それでもこの星に八十憶ものヒトが住み、その決まり事の為に八十憶が尻を叩かれ、右往左往し、寿命を縮めている訳で、一国の憲法がその国の中でしか効力を持たないのに対して、その時間という決まり事は、実に八十憶を動かし、走らせ、あまつさえ時計という可視化する装置によって存在を主張し、また世界を支配している。

 かくも大勢の生き物に影響力を持ち、その決まり事の為に人生を棒に振る、それどころか生命の危険すら冒さなければならないかも知れないほどの重大な決まり事が、一体、いつ、誰が、決めたものであるのか、実は誰も知らなくて、百科事典をひっくり返しても、時間の発明者、より正確に言うならば、時間に何時何分という名前を付けて、物理学上の時間を生活規範としての時間にしてしまった者の正体を教えてはくれない。もっとも、時間に名前と役割が与えられたことで、弊害ばかりでなく、効用もまた認めなければならなくて、それは始まりに対する終わりがあるという話で、どれほどつまらない一日、くだらない一日でも、日が暮れて、仕事だの家事だのという必要悪から解放されて、もうすぐ一日が終わるという二十一時だとか、二十二時が訪れることを知る為に見る時計という装置は、日中追い立てられるように過ごしている時に見る時計とはまた違って、ようやく素の自分に戻ることが出来るという解放の時を知らせてくれる。

 それからの、つまりは就寝までの僅かな時間が、一日二十四時間の中で、意識の有る無しを別として、寝ている時間も含めるならば、もう少し増えるけれども、自由というか、本来ヒトが在るべき自然体で過ごすことの出来る本当の一日で(だから一日は二十四時間ではないとも言える)、愛読書と共に活字の世界に浸るか、選び抜いた名盤をかけて音楽の調べに身を委ねるか、それこそ時間を忘れた至福の時間になる。無論、蛇足を覚悟で説明するなら、今言った「時間を忘れた」の「時間」は名前と役割を与えられた、つまりはヒトが発明した「時間」のことであり、「至福の時間」の「時間」は物理学上の「時間」のことである。結局、長々と文章を連ねて来たけれども、時間には「人工時間」と「自然時間」の二つがあるという話で、休日、人工時間を気にせず、昼頃に目を覚まして、動画だの撮り溜めたドラマだのを観て過ごし、気が付いたら食事も忘れて日が暮れているような過ごし方は、自然時間を生きていると言えるだろう。

 もちろん、どちらが善で、どちらが悪という話でもなくて、仕事をしている間は、早く終わらないかと人工時間に希望を託し、のんびり湯にでも浸かっている間は自然時間の幸せを想う、かくもヒトという生き物は、都合の良い生き物で、それでも、忘れてはならないのは、と言うか、はっきりと認識しなければならないのは、その早く終わらないかと気を揉んでいる就業時間もまた、ヒトの考え出した人工時間の一つであって、よく九時五時などと言うけれど、自然時間に「何時何分」と名前を付けた当事者の正体が判らないように、世間一般、概ね九時五時を就業時間と決めた当事者も誰だか判らなくて、法律はただ八時間を超えた労働を認めていないだけなのだから、別に始業を十時にしたところで、お昼にしたところで、何の問題も無いという話は前にしたことがある。だから会社の方でも、ベースアップの為の財源捻出に汲々とするくらいなら、始業時間を一時間繰り下げる、休暇を一日増やすだけで社員の満足度は格段に上がるはずで、さしたる根拠も無く始業時間を横並びにしなければならない程、競合他社に出し抜かれたくないのだろうか。大体、人工時間の一つの単位である一週間とて、『聖書』を書いた使徒だか聖人が、天地創造した神様を七日目に休ませたから七日に決まり、日曜日が休日になったのだから、神様に中休みと言って水曜日も休ませていたら、世界人類はどれほど楽になっただろうか。

 そんな事を考えていたら、就寝までの貴重な自然時間が刻々と過ぎてゆき、残り一章で読み終える予定だった読みかけの本を読み損ね、人工時間を可視化する為の時計を見たら、もう零時に迫っていた。明日の人工時間である始業時間と、その人工時間に間に合わせる為に逆算した起床時間という人工時間の為に、読みかけの本は断腸の想いで諦めて、人工時間であるところの就寝時間の準備を始めることにして、一体、時間に名前と役割を与えるなど、どこの誰が考え付いたことなのか、ぶつぶつ言いながら、その零時と名前を付けられた、実は何の変哲も無い真夜中の瞬間に眼を閉じる。

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