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ビデオガールがいなくなった世界より。

漫画を作る、またはドラマを作る映画を作るでもいいが、作り手である作者にはその物語のルールを作る権利がある。作者はその作品を思うがままに操作して、思うがままに初め、展開をつくて、自分が作り上げた物語の最後を迎えさせられる特権がある。でも受け手側がそのラストを受け入れられなかったらどうなるでしょう?

私の場合、物語に感情が乗ってしまい、物語に中の人と同化してしまう性質があるため、その物語がハッピーエンドじゃなかった場合にそれを見た日の夜は寝れなくなってしまう事がある。

例えば、この「電影少女」という作品もその一つで、漫画の方は拝見はしていないのだが、この実写ドラマのラストは決して良いと言えるラストではないのが僕の見解で、なんでこうなってしまったんだろう、作られたルールの中に縛られてそれ通りになる運命であるということを受け手側は受け止めながらそのラストに向かっていく切なさは計り知れないものがある。

人は誰だって、アンバランスな生き物であり、それを包み込むために異性という存在がいるわけで、なんでもする事ができるビデオガールの存在により、主人公は、そのアンバランスな部分を限りなく平均的な位置に戻していく。愛がどうとか好きかどうとかより、手放したくない、この優しさに触れていたいと主人公は感じてしまう。

どうあがいても、主人公、または受け手側が望むハッピーエンド的な展開にはできないという絶望感は計り知れなくて、結局人間は一人で生きなくてはいけない、死ぬ時も孤独で、孤独が嫌だから、パートナーを探す。でもこんなに献身的なビデオガールのような人間はいないわけで。これが夢の物語であることを認識しながら生きていかないといけないのだ。

私は、夢は夢のままで終わらせられる作品に出会いたいとつくづく思う。

夢を見させて欲しいし、限りなく夢の中で死にたいし、物語の中に社会の残酷さのようなものはいらないと思う。残酷な世の中だからこそ、夢物語を書いて皆の心を満たして欲しい

そう思う

以上。

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