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モノに纏わるそれぞれの想い

50年代に、テレビ・洗濯機・冷蔵庫と三種の神器が生まれ、一家に一台持ち始めるようになった。(女性は家事が楽になった。女性のニーズを把握して女性にかかるコストを軽減させると世界が一新するのかもしれない。)

バブル期は車を所有してナンボ。90年代には携帯電話を持ち歩く時代なった。人々にたくさんの革命が起きた。だからモノは"形として残る"という物質への絶対的信頼がある。所持する安心感。モノへの執着心。

私たちの時代には、モノのクオリティは既に飽和状態。イノベーションがあったとすれば、スマートフォンだったり。昨今で言えばAIとか、それらはオンラインの中の世界。

良いものを長く使うことの大切さも分かるけど、そこそこのものを大切に使って寿命を迎えた時に未練なく手放せることの方が気持ちがいい気がする。

ある一定の値段を超えると全てのものの価格は付加価値でしかなくなる。3千円の寿司より1万円の寿司だけど、3万円の寿司より1万円の寿司でいい。服だって、コスメだって。みたいな比喩。

だから所詮、私にとってモノは消耗品。モノは時間と共に価値を失う。どんどん古くなっていく。紙幣より株的な。常に進み続ける、周りも自分も。自分は今までと変わらないなんてありえない。変わらないなら周りと共に成長しているということ。

常に新鮮な空気を循環させる。とらわれない暮らし。自分は肉体だけで自分だから。どんなにお金持ちになっても黄泉の国には持っていけない。私は体験や情報、思い出、無形のものに価値を見出す。
"もったいない"という鎖に縛られた彼らの目には、私は戦後の貧しさを知らない贅沢な子だという。そうなのかもしれない。まだ使えるから、もうずっと使ってないものをとっておくの?ホコリまみれで、虫の死骸もある。執着心は、澱みを生む。汚れを溜め込む。

どんなに古くてボロボロで、ある方が健康に悪いものの数々にも感謝しないといけない状況になる可能性があるの?賞味期限が3年以上前のものを捨てたことを悔いる可能性があるの?そんな世界線はイヤだけど来ないとは限らないかもしれない。そのギャップがむずかしい。ただ、私が若くてモノを粗末にする人間だと馬鹿にされるのはいかがなものかと思う。

それとも、モノじゃなくて管理能力の話なのか。どちらにせよ管理できるキャパがない人には古いものを持つ資格はない。

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