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【都市計画家列伝】第1回 イルデフォンソ・セルダは現代バルセロナに何をもたらしたか ①歴史編

はじめに:なぜイルデフォンソ・セルダか

昨年の交換留学中に欧州を中心に14か国41都市を回った。その41都市の中で群を抜いて魅力的だったのがバルセロナである。そのすごさは何と言ってもストリートの賑わいにあった。道路という道路が公共空間となり、当たり前のようにカフェやレストランの座席、ベンチ、子供向けの遊具などが置いてある。どの道路でも信じられない数の人が行き交い、そしてくつろいでいた。それにとどまらず、ミクストユースで高密度な市街地、緑被率の高さ、ファサードの多様性、時折現れる変則的な街区の意外性など、都市としての魅力にあふれていた。加えてバルセロナはスマートシティ政策と都市計画への市民参加において世界一といってよいほど先進的な取り組みをしており、まさに現代都市の目指す姿だと感じた。

バルセロナの魅力的な都市空間と先進的な取り組みの根本には何があるのだろうか。何がこの都市を特別にしているのだろうか。バルセロナに最も大きな影響を与えた人物と言えば、その最大の特徴であるグリッド型の街路を生み出したイルデフォンソ・セルダだろう。セルダのもたらした何かがバルセロナを特別な都市たらしめているのではないかという仮説のもと、彼の生涯と都市計画思想について調べ、都市計画のあり方を考察する。


1. セルダが生きた時代とバルセロナ

イルデフォンソ・セルダは19世紀中盤にバルセロナの都市拡張を計画・実行した都市計画家である。セルダによってバルセロナは中世の要塞都市から近代都市へと生まれ変わった。では、セルダが生きた時代とはどんな時代だっただろうか。そしてなぜバルセロナは都市の拡張を行ったのだろうか。山道ら(2009)『近代都市バルセロナの形成 都市空間・芸術家・パトロン』[1] からその時代性を紐解く。

19世紀当時のバルセロナの市域は現在の市街地中心部にある「旧市街」の範囲にあたる。ローマ植民市として誕生したバルセロナは13世紀から14世紀に地中海の交易拠点として繁栄を極めた。交易のもたらす富は市壁の外側に重厚な建物が並ぶゴシック地区を形成し、それを囲う新しい壁が作られた。その後ペストの流行や飢饉により長い停滞期に入るが、主に農地が広がっていた現在のラバル地区を囲う新しい市壁が作られ、ラバル地区には広い敷地を壁で囲んだ修道院や教会が立ち並んだ。このように旧市街は長い歴史の中で漸進的に形成されたものだった。

18世紀初頭のスペイン継承戦争に敗れたバルセロナはマドリードの王権からの強い圧迫を受けるようになる。街の外縁部にはバルセロナへの圧力を象徴する2つの要塞が建設され、城塞都市としての性格を強めていった。一方で王政の中央集権的な保護貿易政策によりバルセロナでは繊維産業が勃興し、急激に人口が増加していく。19世紀に入っても人口は増え続け、人口密度は1haあたり約860人と、ロンドン市内の10倍にも達した。中産階級の平均寿命は34歳だった一方で、労働者階級では劣悪な住環境により17歳程度だったと言われる[2]。1836年の自由主義政権下でラバル地区の広大な敷地を占有していた教会や修道院の多くが廃止され、広場・市場・工場・住宅・劇場等に転用されたが、新しい工場の周辺にはやはり超高密の労働者地区が形成された。現在でも旧市街はわずか1-2mの細い路地と密集した中層建築で構成されており、当時の超過密状態を十分にうかがい知ることができる。こうした状況下で、バルセロナ市議会はマドリードの中央政府に対して長年にわたり市壁の取り壊しによる都市拡張の許可を求め続けたが、マドリードが仇敵にそれを許すはずがなかった。

立て詰まったバルセロナの旧市街

19世紀中盤は世界的にも自由と公正を求める民衆の叫びが広がった時代だった。1848年革命が世界各地に波及し、ユートピア社会主義の試みも生まれた。スペインでも組織化された元職人の労働者による機械打ちこわし運動が広がり、コレラの流行が追い打ちをかけたことで、1854年7月に革命による進歩派政権が成立し、直後にバルセロナの市壁の取り壊しが許可された。そして労働者階級への強い共感と合理主義的精神を持ち合わせていたイルデフォンソ・セルダは、この時代に労働者のための新しい都市を作ろうと考えたのだった。

2. セルダの半生

a) 生い立ち

イルデフォンソ・セルダは1815年にカタルーニャ山間部の司教座都市ビック近郊で地主の三男として生まれた。ビックは司教座都市なだけあって伝統主義旧守派の牙城であり、のちに保守的なカタルーニャ主義を育むが、セルダ家は祖父の代から交易に従事するリベラルな一家であり、外からの豊かな情報に触れて育った。

三男だったセルダは家督を継ぐ予定はなく、将来自分で生計を立てるために学校に通った。まずは神学校に入学するが馬が合わず、バルセロナ市で数学や建築を学んだ後にマドリードの土木学校に入学した。そこは当時の自由主義と科学主義を代表するエリートが集う場所であり、国中に道路と鉄道を行きわたらせるというミッションから経済的自由主義の気風が色濃く、政治活動も盛んだった。セルダも進歩派政権のミリシア(義勇軍)に参加するなどした。セルダはマドリードで徹底した合理主義と自由主義進歩派の精神を育んだのだった。

b) 都市計画家としての活躍 セルダ案とトリアス案

しばらく土木技師として働いていたセルダだが、父と2人の兄の死により思いがけず家督を継ぎバルセロナに戻った。ここから私財を投げ打って都市問題と都市計画の研究に没頭し始め、都市計画家としてのセルダが誕生する。また、さらに労働者への共感を強めていたセルダは政治活動も続けており、国会議員にもなった。

前述の通り1854年の革命により進歩派政権が成立し、同時に市壁の取り壊しが許可された。進歩派政権そのものは2年で潰えたが、都市拡張の方針は維持され、セルダはマドリード中央政府の勧業省から依頼を受けて拡張地域の計画を立案する。しかし、都市拡張事業のイニシアティブをめぐりマドリードの勧業省とバルセロナ市議会で対立が起きた。バルセロナ市議会の提案したコンペでは全会一致でアントニオ・ルビーラ・イ・トリアスの案を選出したが、最終的に中央政府は王勅でセルダ案の採用を決定した。

コンペで選出されたトリアス案[3]
勧業省からの依頼で作成したセルダ案[3]

トリアス案とセルダ案の差異は建築家と土木技師の違いと言える。トリアス案は六角形の形をした旧市街をそのまま放射状に拡張させるプランであり、中世からの文脈と都市の美しさを大切にする建築家=芸術家としての提案である。一方でセルダ案は合理主義的な徹底したグリッド構造であり、旧市街の文脈を完全に無視し、意図的に排除していると言える。そもそもマドリードの土木技師たちが牛耳る勧業省がセルダに設計を依頼したのは、対立するカタルーニャの建築家達とは異なり、自らと同じ教育を受けてきたセルダを(その社会主義的思想を知ってか知らずか)信頼していたからだった。

フラットな目線で見てどちらの方が優れた空間計画かと言われれば、大半の人がトリアス案を選ぶだろう。王勅を受けて多くの市議会議員が辞表を提出し、新聞各社は反セルダキャンペーンを張り、後代でも建築家ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルクらによって科学万能主義、芸術性に欠ける、面白みがない、アメリカ植民地都市の模倣でしかない、カタルーニャの歴史を無視しているなどと批判されたことはむしろ当然とも思える。現在世界中の都市が模範とするバルセロナ新市街だが、計画当初には、空間設計の芸術性や歴史性といった意味において、全く評価に値しないと言ってよかった。では現代バルセロナの魅力はすべてセルダ以降の計画家の仕事に帰されるべきものなのだろうか。第2部では主に阿部(2010)『イルデフォンソ・セルダの著書「都市計画の一般理論」に至る計画概念についての試論』を参照しつつ、セルダの計画思想について彼の5つの言葉から詳しく検討する。


[1] 山道, 八嶋, 鳥居, 木下(2009)『近代都市バルセロナの形成: 都市空間・芸術家・パトロン』慶應義塾大学出版会.
[2] 阿部(2010)「イルデフォンソ・セルダの著書『都市計画の一般理論』に至る計画概念についての試論」都市計画論文集45(3), p211-216.
[3] バルセロナ旧市街の再生「実現しなかったバルセロナ改造計画」<http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/judi/semina/s1205/abe005.htm>

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