SNSは僕を幸せにするか

「いいね」の通知がきた。
そのとき、「ともだち」から自分の投稿が認めてもらえて、場合によっては羨まれているような気がする。それが何人分も重なって、投稿した僕は自分の居場所の存在を再確認する。
この感覚はおそらく共感してもらえるのではないだろうか。

以前から親しい友達には、なかなか会えない人が多い。
離れていても、心理的に距離は近いことだってよくあるし、仲がいいからこそ頻繁に会う必要はないように思う。
けれども、そういった友人からストーリーズにいいねが来ると、直接会話していなくても、なぜかコミュニケーションをとったような気がする。

「俺の最近の日常はこんなかんじ」
「ふむふむ、今度その話聞けるの楽しみにしてるよ」
そんな架空の会話が脳内で自動再生されることはよくある。

古くからの友人たちと、常につながっていられる。
SNSって最高なサービスだ。


けど、どうしてだろう。SNSが最高という表現に違和感が残る。
なんとなくだけど、いいねが来る経験があることによって、いいねが来ないときに、否定?非承認?される感覚や、無視されている感覚になるからだろうか。
自分よりいいねがたくさん来ている友人、同じフォロワーをもつのに自分にはいいねが来ないが友人にはいいねが来ていることへの嫉妬。劣等感。
このブログだってその対象なのだ。

「昔はあんなに仲が良かったのに、今じゃ「いいね」もくれなくなってしまった。」
相手方はたまたま忙しくて、一気に流し読みしただけで、たいした意味はないかもしれないけど、無意識にそんなネガティブな憶測をしてしまうことがある。むしろ、仲がよければ「いいね」なんて別にいらないような気もするのに。

忘れてはいけないのは、SNSは商業サービスであることだ。できるだけ利用してもらって、広告費を提供者側は獲得したい。ただ、あまりその「企業側」の存在が意識されにくい仕組みになっているし、いいね制だって、根幹的な彼らの戦略の一つである。

こうしたシステムのなかで、僕は「他者から承認される幸福」を僕自身の幸福度の指標としてしまうことを強く恐れている。
自分が幸せかどうかは自分で決めりゃいいのに。
承認欲求はずっと昔からあっただろうし、ある程度社会で生きていく以上ないといけないと思う。でも、高校生くらいからなんだか承認欲求が強すぎる世の中になったもんだなあと思う。


文字が中心のSNSに関しては、面白いツイートだったり、ためになる情報がたくさん流れてくる。コメント欄なんかもそうだ。裏事情を解説してくれるコメントがあったり、伝説のコメントと語られる秀逸なコメントは探す甲斐があるし、声を出して笑ってしまうものもよくあり、職人ってすごいなあと尊敬する。

でも、くそどうでもいいことで喧嘩しているコメントだったり、人がもっていそうなコンプレックスをえぐるような発言も同じくらいある。しかも、どんな人間が言っているのかもわからず、同じ人間が数人を演じて投稿もできてしまう。そもそも、日常のなかでは言えないからこそ、SNSでぶちまけて楽になろうとする人だってたくさんいるのだろう。

このマイナスの情報に触れる観覧者の幸福度はさがるし、投稿者側だって根本的な解決はできないし、ときには被攻撃者側の返り討ちにあって幸福度はさがるだろう。

SNSのこの二面性は、すべて足し合わせるとプラスになるのかマイナスになるのか。SNSが与える幸福度への影響の収束は読めない。


スポーツ観戦や芸能人のロケ現場で、せっかくの機会なのにみんなスマホ越しに見ている。
プロのカメラマンがはるかに高性能なカメラで、録画しているのにみんなでスマホのカメラを向けている。

僕は、自分の水晶体というレンズに直接一回きりの景色を焼き付けた方がなんとなくいい気がするタイプの人だ。カメラで写真を撮って記念にするとしても、ずっと動画を回すために意識を使いたくないし、周りの人たちと楽しい体験を共有したい。
動画での映像はあくまで再現であって、「経験」なんて
一発勝負なのだから。

日本代表戦を国立競技場でみたとき、三笘のドリブルで会場が唸ったり、ゴールの瞬間、周りの知らないおっさんたちと、「うぇーい」とハイタッチして喜んだ瞬間は最高だったし、あの感覚はデジタル情報に変換することは厳しいように思う。

ありきたりの結論になるが、上手く使えば僕はSNSに間違いなく幸せにしてもらえると思う。
ついつい僕は見失ってしまうが、SNSは道具であって、目的ではない。

目的は「あなたとの今」であることを僕は忘れずにいたい。



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