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命があること。当たり前にあること

会いたい人に会えなくなってから、人生本番、だと何かで読んだ。

その物語は確か、恋人がいなくなってからも生きていかなければならない、残された側が語り手になる話だった。会いたいのに、もう、会えない。どうしたって会えない。物理的にそばにいることは叶わないし、精神的にそばにいることも叶わない。

もらった思い出を、まるで体に蓄積された栄養のようにちょっとずつちょっとずつ嚙み砕くしない。貯金を切り崩すように、ちょっとずつちょっとずつ減らしていくしかない。だって、もう増えないのだから。

記憶の中の、思い出の中のその人をちょっとずつ食べて、思い出して、自分がいなくなるその日までゼロにならないようにする。会えなくなっても生きていかなければいけない私にできること。

失って初めて、私の人生が始まったのだと、書いてあった。


それを読んで、じゃあ、まだ会いたい人に会えている私は本番ではないのかもしれないと思った。

電話をすれば出てくれるし、メッセージを送れば読んでくれる。スマホの画面の向こう側には、必ず相手がいる。いるのだとわかる。

それは、なんと幸せな当たり前なのだろうか。


今日、取材でお話した方が「身体の一部を失うこと、ボディイメージが変わることで命を絶ってしまう人が、この国にはたくさんいる」と話してくれた。かくいうその方も身体の一部を失っていて、しかし、世の中にある治療法で人工的に補っているとのことだった。

「命がすべて。命があってこその身体だと私は思う。だけど、一般の人はなかなかそうはいかない。目に見える身体の形が変わってしまうことで絶望してしまうし、存在していたものを失ったと思うと、心が追いつかない場合が多い」

その話を聞いて、命は0歩目なんだなと思った。

当たり前にある。だからこそ、0歩目。まだ歩いていないと私たちは思ってしまう。だからこそ命が脅かされたときにはじめて0歩目があったこと、心臓が動いていたことを、シンと思い知る。


スマホの向こうに人がいるという、ある種の思い込みと同じで、私たちはいとも簡単に、さらりと幸せを享受している。そのはずなのに、それが日常になってしまうと、まったく気がつかなくなってしまう。

命があること。会いたい人に会えること。連絡をしたら返ってくること。電話をしたら出てくれること。

どれも言葉にすると、「え、そりゃあそうじゃん」となる。なるからこそ、0歩目、立っているという事実を忘れそうになってしまうのだ。

”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。