[歴史発想源]「不屈の海龍・鄭氏台湾篇 〜鄭成功の章〜」(1)平戸に降り立つ海上商人「鄭芝龍」
現在『ビジネス発想源 Special』の「歴史発想源」では、第50章となる「三国魏王篇」を連載中です。「三国志」でもお馴染み、中国三国時代の英雄・曹操を主人公にしたストーリーです。
そこで今回、中国史への理解をより深められるように、これまでの「歴史発想源」の中から中国大陸が舞台になる話の序盤を公開させていただくことにしました。
その1つが、台湾の英雄・鄭成功(ていせいこう)を主人公にした「不屈の海龍・鄭氏台湾篇」です。清国に滅ぼされた明王朝を復興させるために、西洋列強を台湾から追い出して反清政権を打ち立てる鄭成功の活躍を描いています。
今回、「歴史発想源/鄭氏台湾篇」の「第一回」の序盤をここに公開させていただくことになりました。読んでみてご興味が湧きましたら、電子書籍版で第八回まで全て読んでみて下さい。
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【第一回】平戸に降り立つ海上商人「鄭芝龍」
■17世紀初頭の、東シナ海一帯の貿易事情
時は、1600年代前半の中国。
日本では西暦1600年に天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が起こり、そこで勝利した徳川家康が1603年に江戸幕府を開府して、江戸時代がスタートしました。
その頃、中国を支配していた国は何でしょうか?
それは、明(みん)という王朝です。
その明代よりも前の中国にも着目してみましょう。
それまでの中国王朝というのは、秦(しん)や漢(かん)など、基本的には現在の北京や西安といった、中国北方の黄河流域にあたる中原(ちゅうげん)の支配者が中国大陸全土を統治しているという形が常でした。
そしてその支配者となった国は、かつては漢民族の王朝がほとんどでしたが、13世紀にはついに異民族の王朝が誕生します。
それは、元(げん)という国です。
北の蒙古(モンゴル)からやって来て中国全土を支配した国で、鎌倉時代に日本に「元寇」と呼ばれる侵攻を行なった国です。元寇の出来事が一般的に「蒙古襲来」と呼ばれるのは、元が漢民族ではなく蒙古人による王朝だったことに由来します。
1368年、中国南部から再び漢民族による勢力が拡大していき、その元王朝を中国大陸から追い出しました。
その南からの勢力を率いた人物は朱元璋(しゅ げんしょう)という人物で、彼が建国したのが先述の明王朝です。
長江以南から興った王朝が中国を統一したのは初めてですが、ようやく大陸に漢民族による支配が戻ってきたわけです。
そして、朱元璋に始まる明は250年以上の長きにわたって、中国大陸を支配していきました。
明国が建国された1368年当時は、日本は室町時代です。
その時代に日本を統治していたのは室町幕府ですが、その3代将軍・足利義満(あしかが よしみつ)は明国との貿易、いわゆる「日明貿易」を開始したことで知られています。勘合符を用いていたために「勘合貿易」とも呼ばれていました。
明国は長く日本と貿易を続けていたのですが、あることをきっかけにピタリと貿易を行わなくなります。
室町時代後半、勘合符を持って日明貿易の権利を独占していたのは、周防国(=山口県東部)を本拠にする戦国大名・大内氏でした。
なぜこの頃は室町幕府ではなく一地方の戦国大名が貿易の権利を持っていたのでしょうか。
そのきっかけは、「応仁の乱」です。
足利将軍家の後継者問題から始まった応仁の乱は、足利将軍家を分裂させて大きな内紛の嵐を生みました。
そんな中、京都から追い出されてしまった11代将軍・足利義澄(よしずみ)は、西国で屈強の軍事力を誇っていた大内氏を頼りました。大内氏は京都まで乗り込んで足利義澄の復権を支え、その見返りとして貿易の権利を譲渡されていたのです。
しかし1551年、大内氏の当主・大内義隆(おおうち よしたか)は、筆頭家臣の陶晴賢(すえ はるかた)によって「大寧寺の変」で追い詰められて自害してしまい、これがきっかけで日明貿易はストップしてしまいました。
大内義隆の死後、陶晴賢は大内義長(よしなが)という新たな大内氏新当主を擁立したのですが、明王朝は「それは簒奪者と同じであり、正当な大内氏当主とは認めることはできない」と言って、大内氏との勘合貿易をやめたのです。
それまで大内氏は勘合貿易を独占していたわけですから、これで日明貿易は無くなってしまったんですね。
両国間に正式な貿易がなくなるとどうなるかというと、密貿易、つまり非公式の貿易が横行するようになります。民間人たちが国家の目を盗んで勝手に商取引をしてしまうのです。
そんな密貿易を取り仕切っていたのが、倭寇(わこう)と呼ばれる海賊集団です。
海賊集団、と聞くとお宝を求める海の盗賊というイメージを持ってしまう方も多いかもしれませんが、この頃の倭寇といえば、多くは私貿易を行なう海上商人のことでした。
そんな倭寇による密貿易が激増していったため、明王朝は海禁政策と呼ばれる貿易制限を行なうのですが、制限されればされるほど、密貿易は増えていきます。
明国がいかに貿易の取り締まりを強化しても、いたちごっことなります。中国には古来より「上に政策あれば下に対策あり」ということわざがあるほどです。
しかも国家の武力での取り締まりに対抗するために倭寇たちは独自に軍事力を備えていったため、国家の水軍に匹敵するぐらいの強さを持っていったのです。
こうして、東シナ海一帯は、国家も簡単に手出しができないほどの倭寇の縄張りになっていきました。
倭寇にはもともと日本の落ちぶれた武士が多く参加しており、そもそもの本業である戦いに長けていたために倭寇はとてつもない軍事力をもっていました。だから、明国は倭寇を生んだ日本を次第に嫌うようになっていきました。
さらに、日本と明国の仲が修復が不可能になった決定的な出来事が、日本を統一した豊臣秀吉による「文禄の役」と「慶長の役」、いわゆる朝鮮出兵です。
この頃に朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮は弱小国家で、日本からの豊臣軍は瞬く間に朝鮮半島を駆け上がるのですが、李氏朝鮮は明国に対して臣従の姿勢を取っていたので、明国は属国の朝鮮を助けるべく大軍を送り、朝鮮半島から豊臣軍を追い出すことに成功します。
ところが、この李氏朝鮮の救援の遠征の多大な出費により、明国の財政はかなり逼迫したものとなり、やがて政治は混乱し始め、末期症状を迎えていきます。
国家が衰えると、ますます密貿易は活発化して、海上商人がどんどん力をつけていき、日本と中国間の東シナ海一帯は、これらの海上商人をいかに味方につけるかで運命が決まるような時代になっていました。
実際に、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行なった際も、日本軍が最初簡単に朝鮮半島に上陸できたのは、倭寇の協力を得ていたからでもあります。
さらにこの頃には、それまでの東洋史には出てこなかった別の勢力が現れて大きな影響を与えるようになります。
それは、ヨーロッパ諸国です。
日本に鉄砲が伝来したのが1543年ですから、戦国時代には既にポルトガルがアジアに到達していました。
大航海時代を迎えたヨーロッパ諸国は、どんどんアジアに進出してきており、ポルトガルが中国のマカオ、スペインがフィリピンのルソン島、オランダがインドネシアのジャワ島と、次々とアジアに拠点を作っていきました。
このように、この頃の時代の流れは、海洋事情が大きく影響していたのです。
■有能すぎる一人の中国人青年、平戸島へ
1603年に江戸幕府を開いた徳川家康は海外との貿易を推進する考えを持っていたので、江戸幕府は当初、欧米諸国とも積極的に貿易を行なっていました。
その南蛮貿易の貿易港として新たに利用されるようになったのが、肥前国の平戸藩(長崎県平戸市)です。
豊臣秀吉の時代から、ポルトガルとの南蛮貿易は長崎(長崎県長崎市)で行なわれてきましたが、1609年にオランダと日本の国交が正式に始まった時、オランダ商館が建てられることになった場所が、平戸でした。
幕府は江戸に近い浦賀や下田などを希望したのですが、オランダにとっては、少しでも大陸に近い西側であり、他国の貿易事情の情報もつかみたいといった事情から、長崎に近い平戸のほうが都合が良かったのです。
後に鎖国政策が始まるとこの平戸のオランダ商館は長崎の出島へと移されることになるのですが、それまで平戸の地は異国との窓として国際都市になっていました。
そんな平戸の街に、ある一人の中国人の青年が住み始めることになります。
鄭芝龍(てい しりゅう)という海上商人です。
1604年に中国東南部の福建省に生まれた鄭芝龍は、1620年頃、父親が死んだのを機に、親戚のいるマカオに移り住みます。
この頃のマカオは、ポルトガルの居留地でした。
かつてはフランシスコ・ザビエルも本拠地としていたアジアでのキリスト教の布教活動の拠点で、また日本などアジア諸国への貿易の基地でもあり、大繁栄を極めていた国際都市だったのです。
多感な青年期にそんな異国の情報と文化にあふれ刺激的な都市であったマカオにやってきた鄭芝龍は、外国の文化や貿易の知識に大きく惹きつけられ、カトリックの洗礼を受けたことを始め、貿易学から他国語までありとあらゆる学問を学びます。
鄭芝龍があまりに熱心で有能な若者なので、マカオを拠点にしていた李旦(りたん)という海上商人が鄭芝龍のことを気に入り、彼を自分の貿易スタッフとして雇うことにしました。
李旦の主な貿易相手は日本であり、その貿易の舞台となったのが、平戸です。
李旦はもともと、王直(おうちょく)という倭寇の部下として働いていました。
倭寇というと「倭」の字が付いていることから日本人の海賊だというイメージが一般的ですが、この頃の倭寇の親玉はほとんどが中国人の海上商人でした。彼らが、戦国時代が終わって戦う仕事がなくなった日本の武士たちを多く雇っていたのです。李旦が仕えていた王直という人物もその中国人の一人です。
王直は戦国時代の頃から、平戸の大名であった松浦氏と貿易をしていたため、頻繁に平戸に行っていました。
1543年に種子島に鉄砲が伝来したことで戦国時代の戦術に大きな変化が起きましたが、実はこの鉄砲伝来も王直が大きく関係しています。
王直がポルトガル人を乗せていた商船が漂流してしまい、それがたまたま種子島に到着したのです。そのポルトガル人がたまたま鉄砲を持っていて、種子島の領主に売ったんですね。
つまり、この王直という人物は、日本とポルトガルの貿易を結びつけた人物であるとも言えます。
その部下であった李旦は、王直の死後にその勢力を引き継ぎ、マニラを拠点にして日本の平戸との貿易を担っていたのです。
1621年、その李旦が、日本での商談を強化するために、長らくマカオにあった貿易拠点を平戸に移したので、鄭芝龍もそれに従って平戸へと移り住みました。
平戸藩の藩主・松浦隆信(まつうら たかのぶ)は、日本語をはじめポルトガル語やスペイン語も使いこなすし、剣術や詩歌などの日本の文化をひと通りマスターしているし、外国の情報にもものすごく詳しいこの外国人青年・鄭芝龍をいたく気に入っていました。
松浦隆信は鄭芝龍に、平戸港から西南に3kmほど離れた場所にある川内浦(かわちうら)で居住することを許可します。
そして鄭芝龍は、移り住んだその川内浦で一人の日本人女性と恋に落ちました。
田川マツ、という名の女性でした。
彼の父は田川七左衛門(たがわ しちざえもん)という足軽身分の武士ではありましたが、れっきとした平戸藩士。
平戸藩主・松浦隆信は、彼らの国際結婚を喜んで認めます。
こうして、鄭芝龍とマツの新婚生活が始まりました。
そして、マツは待望の第一子を身籠るのです。
■父は大海に旅立ち、母は大道を教える
1624年7月。
鄭芝龍と結婚したマツは、大きなお腹を抱えて、自宅から500mほど離れた千里ヶ浜(せんりがはま)の砂浜で夕食のための貝掘りをしていたところ、いきなり陣痛が始まってしまいました。
突然のことだったのでとても自宅まで戻れる余裕がなく、マツは千里ヶ浜の岩陰にもたれ、子どもを産みました。
海岸で生まれた、幸せに包まれた笑顔の男の子。
その赤ちゃんは、福松(ふくまつ)と名付けられました。
この福松こそが、のちに中国や台湾でその名を馳せる鄭成功(てい せいこう)です。
また2年後には、鄭芝龍とマツとの間には次郎左衛門(じろうざえもん)という次男も産まれます。
さて、福松や次郎左衛門が平戸で産まれたこの頃、東シナ海では大きく情勢が動いていました。
スペインやポルトガルに代わって国際的に力をつけてきたオランダが、さらに大きな東アジアの貿易拠点を求めて、国力の衰えてきている明国の領土を次第に侵食し始めたのです。
その最初の舞台となったのが、中国大陸と台湾島の間に浮かんでいる島々、澎湖諸島(ほうこしょとう)でした。
その頃の明国の首都は北京なので、中央政権から遠く目の届きにくい辺境の島であることをいいことに、オランダ東インド会社がこの澎湖諸島を占拠してしまいます。
あまり統治に力を入れてこなかったとはいえ、こんなところに軍事拠点を作られたら国防上とても危険であるため、明国はオランダと台湾一帯の覇権を賭けて戦争を始めます。
その戦争は半年以上にも渡って繰り広げられますが、すでに中央でも国力が低下しつつある明国は、こんな辺境の領有にかまっているよりも、権利を認めてやるほうが得策だと考え始めます。
この頃の台湾は今のように発展した場所ではなく、大陸からすると海の果ての蛮地という印象の、未開の地に等しい島だったのです。
そこで1624年、明国はオランダと講和を結び、澎湖諸島の軍事拠点化の中止を求める代わりに、台湾島はどうせ明国は大して使っていないから好きに使っていいよ、と認めたのです。
オランダは台湾への進出を認められて、台湾島の中部、現在の台南市にあたる地に、熱蘭遮城(ゼーランディア城)という大要塞を建設し、新しい東アジアの貿易と軍事の拠点とします。
そしてオランダ東インド会社は、対岸の福建省などで台湾開拓のための労働者を募集して雇い、台湾を大規模な植民地として開発していきました。
何もない野放し状態だった辺境の島が、ヨーロッパ人によって支配されることになったのです。
オランダによる台湾の新開拓によって、台湾あたりでバブル景気の兆しが出てきました。
そこで、海上商人の李旦もさっそく、貿易の本拠地を平戸から台湾へと移すことにします。
ただ、この頃の李旦は病気で体力が衰えてきており、李旦の腹心であった鄭芝龍が李旦に代わって多くの業務を取り仕切っていました。そのため、鄭芝龍も平戸を離れて李旦と共に台湾の新拠点に移ることになりました。
まだ未開の地であり何が起こるか分からない台湾に、生まれたばかりの子、福松や次郎左衛門を連れていくわけにはいかないため、鄭芝龍は妻のマツに二人の息子を託して、台湾へと移り住むことになったのです。
そして翌1625年、台湾の地で船団のリーダー、李旦が死去。
何百隻もの船から成るこの李旦の商人部隊を彼の死後に率いることになった新リーダーは、チーム内きっての有能な青年、鄭芝龍でした。
やがて激動の時代を迎えていく台湾、そして中国大陸において、鄭芝龍はその頭角を現していくことになります。
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