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無宗教の僕がサグラダファミリアのミサに参列して変わったこと

生誕のファサード前には既に多くの人が列を成しており、僕は最後尾に並ぶ。鼻が高く顔の彫りが深いヨーロッパ系の人々の中に一人という状況に少しながら不安を覚えた。正確には人種の違いというよりもカトリックにとって大切な宗教儀式に異教徒である僕が参列することが彼らに対して侮辱的な行為として見做されるのではないかという不安だった。事実、僕以外に観光客らしき人間は一人もいなかった。今ならまだ引き返せると頭を過ったが、ミサという宗教行事をサグラダファミリアで執り行うことの意義の大きさは異教徒ながらにも理解していたし、そう考えるとやはり参列をしたい気持ちがどうしても勝った。

生誕のファサードはキリストの生誕から青年期までの成長を喜びや生気に満ちた表現でなされている。大天使ガブリエルがマリアに孕ったことを告知する受胎告知のシーンをはじめ、イエスの生誕とそれを祝福する天使や子供たちの彫刻は今にも動き出しそうな臨場感があり、石膏が織りなす模様は二度と同じものを作れないのではないかと思うほど混沌としている一方で手で触れると崩れてしまいそうなほど繊細な造りをしていた。生誕のファサードにある3つの門の一つ、愛徳の門を潜って聖堂の中に足を踏み入れるのだが、キリストの生誕を祝福する彫刻群に囲まれると無意識のうちに体が強ばり、神聖な出来事を目の当たりにしているような錯覚に陥る。あの時の僕は息をすることさえも忘れていた。

聖堂内部は圧巻だった。

壁一面にたくさんのステンドグラスが組み込まれている。一枚一枚色が異なるガラスにバルセロナの朝日が差し込み、無数の色が織りなすグラデーションが床に反射する。その無垢で優しい光はまるで参列者を出迎える虹ように聖堂を彩っていた。驚くべきはこのステンドグラスを光の屈折や色味がバルセロナの画家であるジュアン・ビラ・イ・グラウ全て緻密に計算された上で創り上げられているということだった。教会の外観に未だ圧倒されていた僕は、聖堂内部に広がる煌々とした情景を処理することが追いつかずに足すらも止めてしまった。

そして聖堂内をパイプオルガンが織りなす高貴な音が響き渡る、否、響き渡るというよりもまるで森の中の静けさをも彷彿とさせるほど自然なヘルツを以て僕の聴覚を癒した。確かに自分は世界的な建築物の中にいるはずなのに、自然以上に自然を感じる魅惑の空間がサグラダファミリアだった。感動を通り越すと次に持つべき感情が分からなくなり、結果的に鳥肌となって僕の体の表面に現れる。目頭が熱くなる感覚を覚えて、慌てて大きく口から息を吸い込む。

中央祭壇に向かって再び歩み、前から3列目の椅子に腰掛ける。全員が入場し終えると扉は閉まり地元の子供たちによる聖歌をもってミサが始まった。

慣れない教会というものに足を踏み入れ、初めて目の当たりにするミサ。

入場の際に手渡されたパンフレットには新約聖書の記載があり、僕は皆に合わせて朗読をする。僕の左隣にいた白髪を生やした70代の老人は頭の中に聖書が刻み込まれているのだろうか、パンフレットを見ずに誰かに読み聞かせるような優しい声で口にしていた。まるで聖書が体の一部分となっているかのように。

そして祭司の合図で参列者がバラバラと跪き両手を合わせて祈りを捧げた。生まれて初めて目にするその光景に少し戸惑いながらも皆に続いて跪く。しかしいくらキリスト教の宗教行事に参列をさせて頂いている立場とはいえ、仏教徒である僕がキリストに対して祈りを捧げるのはどうも違和感があるから、跪くに留めた。ただ、周りを見渡して大の大人達が揃って祈りを捧げる姿は強い生命力を生み出し、人間の本質的な部分に近づいたような気持ちになった。

何よりも、人が神に祈る姿がとても美しいと直感的に思った。

日本で生活をしていると宗教を遠ざける空気を少なからず感じることがある。これは日本という国が宗教で失敗してきた背景を持つ故であると僕は捉えていて、正直仕方がないことだとも思っている。織田信長はやはりキリスト教を禁じたし、遠藤周作が書いた「沈黙」はまさにこの日本の宗教観をうまく描いている。戦時中の宗教的な「天皇万歳」は他外国からも脅威的なものだた認識され、天皇は神ではなく「象徴」と教科書でも学ぶようになった。だから神様を信じることはあっても、それは専ら自身の都合が良い時に限られていて生活の一部に根付くということはなかった。

そんな僕が人が神に祈る姿を目の当たりにすると、張り詰めた緊張感から解放され、ありのままの姿でいることが許されたような気になる。神を信じて何が悪い、神に祈って何が悪い。人間は弱く儚い生き物だ。何かに頼らなければ生きていけない生き物なんだ。誰に訴える訳でもなく、自分自身に言い聞かせた。

ミサの後半に、参列者同士でコミュニケーションをとる時間があった。

「どこから来たんだい?」

左隣にいた老人に尋ねられた。彼の顔は朗らかで、彼の顔を見つめるだけで落ち着いた気持ちになった。

「日本です。旅をしています。」

全て正直に答えた。僕がキリスト教徒でないことも、ミサという儀式がサグラダファミリアでどのように執り行われているのかを知りたくて参列したことも。

「よく来てくれたね。ありがとう。」

意外な返答に驚いていると、周りに座っていた人も続々とハグを求めてくれた。自分が思っているよりも宗教の違いというものは隔たりにはならないのかもしれない。

この日から僕は無宗教ではなく自分が仏教徒であることを堂々と口にすることができるようになった。何を信仰しているかが問題なのではなく、自分が信じることができる何かが在るのかが問われたこの体験を通して僕は自分のアイデンティティーが一つ増えた。

入ってきた時とは逆の受難のファサードから聖堂を出る。ポジティブな描写がなされている生誕のファサードとは対照的にイエスの苦難と悲しみを最後の晩餐から十字架磔刑までの場面で描かれていた。サグラダファミリアの奥深さに改めて心を打たれながら帰路についた。

聖書に描かれた壮大なストーリーを建築を通して伝えようとする人間の力強さ、そして人間の儚さ。この地球規模とも言える一大プロジェクトのような建物の中での体験は僕の宗教観を変え、僕の生き様を変えた。そして人間の美しさを知った。

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