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私の半生と10年間の誤解(後編) 変貌した故郷で今、私たちにできることは?

4歳から20歳まで、私は福島で過ごしました。

震災の前と後で私自身が感じたことは、初めてお会いする方から私の出身地を尋ねられて答えると、ほぼ必ずといっていいほど「地震は大丈夫だった?」と返していただけることです。それは2021年に入っても変わりません。震災当時は故郷を離れていたにも関わらず、こうしたことを問いかけてくださる人々の気遣いや温かさを感じています。

東日本大震災から10年。「あの日何が起こったのか?」「被災地の今の現状は?」ということが多く報道される中、テレビや新聞では伝えられないような内容を綴っていくシリーズの後編。

激動の10年とこれからについて古くからの友人に話を聞き、私自身の半生と重ね合わせて心境の変化を記録します。

※感染防止対策を徹底して撮影・取材を行いました。

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「故郷とは何か?」その答えを見つけるために。

故郷は決して生まれ育った場所とは限らない。何かに想いをはせる「場所」であり「人」がいることだと言った学者がいた。福島県いわき市も2011年3月11日を境に住めない場所が生まれてしまった。人の移動も激しかった。それでもこの場所の気候と温かい人々は変わらず残っている。

中学時代の友人と故郷で会うとなれば、なおさらだ。

1999年。世間はITバブルでインターネット革命が起こり始めた頃にこの友人と知り合った。友人は中学のパソコン部で部長を務め、私は副部長だった。

運動もせずPC漬けだった日々は既に始まっていた。大都市部に比べてブロードバンドの整備が遅かったが、いざISDNが中学校で開通するとお互い興奮しあっていた。メモ帳ソフトで文章を打つのが好きだった。プログラミングもやっていた。

(※注 ISDNは現在の4Gに比べて約1000分の1の速度だったが、1999年当時としては高速通信だった)

私たちはそれぞれパソコン部の「終身名誉部長」「終身名誉副部長」を名乗って中学を卒業したが、数年後廃部となったためこの肩書きは無効となった。しかし私は今でもPCで文章を打っているし、一昨年までは毎年1回会う機会を作っていた間柄である。

そんな「元終身名誉部長」と焼肉をすることになった。七輪を撮っている。

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「久しぶりの外食だよね」

やはりコロナ禍により自宅で過ごす時間が長くなったようだ。今も揺れに襲われることがある。先月には震度5強の“余震”があった。物は落ちたが慌てる様子もなかったそうだ。余震の続く故郷で過ごしている友人はどこか冷静で前向きに見えた。

結局、箸よりも話が進んだ。会計を済ましたあと店主から

「肉あまり食べねぇからどうしたかと思いましたよ」

お腹がいっぱいだったのではない。

「久々だったので話したいことがたくさんあったんですよ〜」

どうしても見たかったあの海へ

次の日「海へ連れてって欲しい」と頼んだ。

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薄磯(うすいそ)海岸は私が小さい頃に遊んでいた砂浜だ。海水浴シーズンになると海の家が建ち並んでいた。震災直後に帰省した際、昔遊んだ様々な場所を訪れたがここだけは立ち寄る気分になれなかった。

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堤防に腰掛けて海を眺める。あの頃に見た砂浜よりも小さく感じる。波によって侵食されたのか?それとも私の図体が大きくなっただけか?

私の背中には、防災緑地という新しいタイプの堤防ができていた。

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堤防部分にはクロマツやクヌギ、コナラなどの苗が植えてあったがまだ3年しか経っておらず高い木々に育つまでにはまだまだ時間がかかる。

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さらにその後ろには公園や住宅が整備され始めていた。

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そんな薄磯からの海を見て、また一つ過去の記憶を取り戻した。

変わらない価値観

学生時代に趣味でドラムをやっていた。私が組んでいた5人組のバンド「Country side boyz」は地元の小さなライブハウスで2回だけ演奏して解散したが、私はそのバンドのベーシストから「吉田」と呼ばれていた(※本名は吉田ではない)。彼はとても不思議な個性があった。初対面の人間とコミュニケーションの取り方がうまく、人の懐に入っていける能力を持っていた。

私を弄り続けてくるからウザいと思っていたが、今振り返ればその個性を許容できるようになっていた。

その元バンド仲間が10年前、震災の津波で犠牲になった。死んだ友人は当時「逃げた」とかネット上で書かれていたけど、彼を知っている人々は皆「逃げちゃいねぇよ」「そんなことしねぇから」と声を揃えた。私もその一人だったしずっと信じ続けてきた。

遺体が発見されて遺族の元に戻ったことが伝わったとき、ネット上にあったその書き込みは消えていた。お前こそ逃げただろ。彼と演奏した曲は今でも大切な思い出の曲になっているし、彼は私の心の中で生き続けている。

友人同士の価値観は震災で変わることはない。

復興が終わった場所

次に案内してくれた小名浜(おなはま)で目を疑った。

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イオンモールができていた。

ただのイオンモールではない。東北有数の規模を持つショッピングセンターである。外観からではわかりにくいが、館内にはたくさんの人であふれていた。商業施設はもちろん、映画館(シネコン)があり小名浜のバスターミナルも併設された。休日は茨城県からも人がやってくる。

「丸一日滞在することができるからね」と友人。

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「復興は終わったんだ」と錯覚してしまう。震災前より明らかに人出が多いからだ。祭りの日を除けば、こんなに賑わっている小名浜の様子は見たことがなかった。

イオンモールの出店計画は20年以上前までさかのぼる。震災で一時中断となり、関係者の努力で完成した。復興のシンボルという扱いになったが元々そうではなかった。私には「発展の起爆剤」にしか見えなかった。復興した中心部ではなく発展した郊外を見ているようだった。

これからの10年、そしてずっと先のこと。

前日に会った友人との話にはまだ続きがあった。

ー人を戻すのは簡単ではないのかな?

地元の若い人たちを安定して移住させて平均年齢を下げたり出生率を安定させる効果を期待してやってるんだけど。ただ(俺の耳に入ってないだけかもしれないけど)郡山とか福島とかはやってるんだけど、いかんせん海が目の前にある浜通りではそういう話はないかな。

何年か前にいわき市の水産関係の人が「好適環境水」という淡水魚と海水魚を同時に飼育できる水があって、岡山理科大学の人が研究した水を視察して帰ってきたんだけど、そのあと何もないんだよ。ってことは「視察はしました」「うちの市はどうなんだろう」結局は海が目の前にあったから。

今振り返ると、水を流していたら貯蔵容器を置く場所も限られてくわけじゃん。これから先は好適環境水をやっていけばいいじゃん。あと「海洋ゴミ」の件もあるわけだし環境や雇用の問題もあるから、魚を売るだけじゃなくて資源を加工する事業にチャレンジしたらいいんじゃないかな。

取り組んでいけば他の場所にはないから(こちらの)宣伝にもなるし環境問題にも取り組めば 地域 → 地方 → 国全体へ動いていくんじゃないかな。

これからの若者は挑戦して欲しい

「寿司屋が入っている鮮魚店を高級店にしたい」というところがあるんだよ。でも地域にいる人たちが望んでいることを求められているものでなければ結果としてはムダになってしまうんだよね。マグロを提供して値段が3,500円から4,000円になるけど、残るんだ。でもやりたいと言っている本人が高級店をやりたいっていうんだからいいんじゃないかな、と。

ー閉店前のタイムサービスみたいな状態になってしまうかも...

お客さんは高いものは望んでないんだよ。お手頃な値段でなるべく毎日買える値段で選定した方がいい。値引きでバーンってやるんだったら鮮度がよくて美味しいものを提供できる基盤を作ってくれたらいいんじゃないかな。でもまだ24歳で若いから。これからの社長だから「やらせっぺ」と。やることを止めやしないからね。

「あの頃は大変だった」と言うのは終わりにしよう。

ーもうあの頃は大変だったというのは終わりでいいのかな?

もういいんじゃねぇかな。人々が同じ方向を向いて「頑張ろう」って思うことだよね。

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皆様へ

短い取材が終わりました。友人は2人ともいい表情に見えました。そして一言一言に説得力がありました。

私は震災直後から常に主張してきたことがあります。震災支援には義援金や物資を送るといった手段がありますが、最大の効果は『現地に足を運んで観光をしてほしい』と。なぜなら直接現地の顔を見て欲しいからです。

しかし、コロナ禍ではさすがに『観光してね』と訴えるのは厳しい。だからこの記事を書いて、一人でも多くの方にお読みいただけるように構成しました。

3月11日の前後は震災報道ばかりで正直もう見たくない聞きたくない読みたくないと思った方もたくさんいらしたことでしょう。そんな中でも私の記事をご覧いただき、そして最後まで目を通していただきありがとうございました。

どうか頑張っている人々へ思いを寄せていただくだけで結構です。その想いは東北・福島へ伝わります。人から人へ、距離を超えて励まされ、明日への原動力となります。

最後に10年間誤解し続けていてごめんなさい。そして皆様へ感謝申し上げます。


遺族の方々や、今もなお避難生活を余儀なくされ、不自由な生活を送られている皆様に、お悔やみとお見舞いを申し上げます。


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