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話して放す《パンドラの匣》(2022/9/17)

思うに、僕はパンドラの匣を開けたのだ。

それまで蓋になっていたのは、自身の抱えてきた出生からの身体問題だった。
それが一番の苦悶の元だったためか、他の(心身的ダメージになるような)出来事にいまひとつ鈍感だったのだ。
(何があったのかという事実の記憶はずっと持っているが、それらがどういう規模のことなのか実感として結び付いていなかった)

だが40代になりそこに一応の打開と決着が着いたとき、同時にその蓋は消滅した。

蓋が無くなったことで、麻痺していた物事がすべて等身大で一気に噴き出したのだろう。いきなり鮮烈に気付いちゃった、というべきか。
今はそれらをひとつひとつリアルにもう一度、今度は人並みに感じ直している段階なのだと思う。

もうこの3年近くかな、普段は蓋が開く前より断然生きやすいし健やかなんだけど、ふとしたときにすんげえフラッシュバックの嵐なのよw

以前にちらりと書いた一度だけかかってみた精神科医が、

「重篤なトラウマ体験は、カウンセリングなどで封印を解くことで、むしろより状態が悪くなることもある。だからここでは迂闊に触れられない」

ともおっしゃっていた。

けどさあ、蓋、もう完全に開いちゃってるんだよね(T▽T)w


ただ僕は何を思い出しても、引き出しても、つぶれることはないと思う。そこはそれ、今の自分の精神の強靭さは信じている(笑)。
フラッシュバックはしんどいが、しんどいだけだ。
泣きたければ泣けばいいし、吐きたければ吐けばいい。
パニック発作も別に死にはしないのだから、一定時間が過ぎるまでやり過ごせばいいだけの話だ。

第一こういうコントロールも巧くなっているから、自分の過去に日常振り回されたりはしていない。毎日すごい穏やかだよ。
だからこのまま、全部感じ直してあげようと思っている。
生き延びてくれた過去の自分と痛みを分かち合って、それからきちんと労ってあげようと思っている。

自分が自分の一番の理解者になってやらなくては、ね。


ブログに書かせてもらうという行為が、僕にとってなぜその物事を完全に手放すための最後のプロセスになっているのか、未だにその理屈は掴めない。
いや、掴めてはいるんだけど、正確には言語化できないというか。

けど、たとえば(ささやかなことだが)両親の話なんかはここに書かせてもらったあと何度か自分で読み返すことで、パーフェクトに消化できたのだ。
今はもう両親に対しては本当に、本当に、どこを探しても感謝の気持ちしか残っていない。

書けないことは書かなくても、それでもこうして漠然とでも話せる場所があることで、今からでも放せることはあると思うんだよね。

心の中を透明にしていく、そのプロセス。
そのためには痛みでも苦しみでも、在るものを無かったことにしてはいけないと思うのだ。
在るものに蓋をせず、自分を騙さず、ひとつひとつしっかりと受け止めて感じて味わって、それから精査して、自分の意志で手放していく。

遅蒔きながら、今はその感じて精査する段階にいるのだろう。


で、ぜーんぶクリアしたら、匣の中には希望だけが残るんだよね?


ね(笑)。



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