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「無理ゲー」だとしても。

「HSP勢」兼「内向型人間」のオタクがお送りする「オタ語り」。
今回のテーマは「ゲーム」。

世間では人生において非常に難しい状況に置かれたときに「無理ゲー」という表現をすることがありますが。

この投稿では、私がゲームから得た人生の「気づき」について少し書いていこうかと思います。


人によって何を重視するのか価値観は違う

まず、前提として人はゲームの面白さに対して「何を求めているか」というのは当然違うわけです。
人によってはグラフィック重視の方もいらっしゃるでしょうし、ストーリーかもしれない。

ただ、世界に無数にある「ゲーム」は時に酷評されることもあるわけで。
作品がつまらないと評価される原因として、やはり一番考えられることは「ゲームとして遊んでいても面白くない」ということが大きいのではないかと思います。

前述したようにグラフィックが良く、ストーリーが良く、さらにキャラクターも良い。なのにゲームバランスだけが壊滅的に崩壊しているという一点のみで「無理ゲー」の烙印を押されてしまうこともあり得ます。

"コン部"から生まれた交流

私は「HSP」という気質により、過激な表現だったり、残虐性のある演出があるゲームが苦手、という特徴を持ったオタクでありまして。

そんな私なので、幼いころから、派手なアクションや、血が飛び散ったりするような格闘ゲームなどは極力避けるようにしていました。

小中学校は人と馴染めず不登校気味で、なんとか合格した高校は理系大学の付属校で、"コミュ障"だった私は当然部活にも入らずさっさと帰宅する「友達いない勢」でありまして。
しかし、幸いにして学校が理系ということで「オタク気質」の生徒が多かったこともあり、少しずつ話の合う仲間ができてきました。

私がオタクとしてのめり込むきっかけとなった「コンピュータ部」(通称:コン部)の方々との交わりが、私の趣味を深めてくれたと言っても過言ではないでしょう。
(結局入部はしませんでしたが、部にいつも居たので部員だと思われていたかもしれない)

愛すべき「クソゲー」

高校時代、その「コン部」では、ゲームのクロスレビューを行う雑誌(フ〇ミ通とか)で低い点数を獲得した作品を敢えて購入しプレイするという一風変わった遊びが行われておりまして。

部室には、世間ではお世辞にも好評を博しているとはいえない作品群が多数転がっており、それらをプレイしては、色々と盛り上がったりしていたわけで。

私自身のHSP気質もあり、誰かが作った作品を簡単にけなしたり、否定したくないという意識があったので、コンピュータ部で行われていた活動(という名の遊び)が斬新でもあり、非常に刺激を受けたのでありました。

世間では「クソゲー」と呼ばれているものに敢えて触れ、それらを進んでプレイするという彼らのフロンティア精神に、色々と感じるものがあった私でした。

生理的に「無理」なものは誰にでもある

私自身、やはり刺激に対して敏感な性質のため、やはり日常生活を送るうえで「ちょっと無理だな」と思うことは多々あります。

例えば、
・ガラスを引っ搔いた時の「キー」という音とか、
・無限に足を持つ節足動物が地面をはい回っている姿を見たときとか
・肉や魚を食べているときに消化しにくい筋が挟まっていたりとか、
私のような過敏な人でなくても、「できれば避けたいな」というシチュエーションは必ず少しはあると思います。

様々な感覚に対して過敏なセンサーを持っている自分のような人間であればなおさら、「無理」と思えるような事柄が人生にはたくさん降りかかってきます。

でも、同時に、「無理」と思えるかどうかは、経験してみないとわからないことでもあります。

やる前から「無理ゲー」と決めたくはない

学生時代、コン部で行われていたことは、進めることが困難ゆえに「苦行」と称され、部内では面白半分で遊んでいた人たちもいたことでしょう。

しかし、私はあの部室で、世間からひどい評価をされていた作品の中にも、魅力を見出せていた作品が多くあったことを忘れてはいません。

たぶん、私は「人と違う」感覚を持っているので、誰かが「つまらない」と評価した作品にも魅力を感じられるセンサーが、もしかしたら備わっているのかもしれません。

ひとつ言えることは、「クソゲー」と称されている作品であっても、必ず「そこに誰かが関わっている」ということです。
うまく伝えきれていないかもしれないけれど、そこにクリエイターの伝えたい何かがある、ということです。

きっと咲ける時がくる

「ゲーム」の話に限らず、人生において「あぁ、これは無理ゲーだ」と思うことはきっとたくさんあると思います。

私自身、HSPと内向型人間という2つのマイノリティー要素を持っているため、なかなか現代社会に適応できずに生きていた一面があります。

一つの職場でなかなか馴染めず転々とし、植物でいえばなかなか芽が出なかった存在です。
でも、すぐに環境のせいにして諦めてしまうというのも、やっぱりそれはもったいないとも思います。

渡辺和子さんのベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』にもありましたが、「人はどんな場所でも幸せを見つけることができる」という言葉に私はすごく共感しましたし、それは「たとえどんなゲームであっても面白いところは必ずある」にも通じるところがある気がするのです。

辛いときに我慢する必要はありません。
でも、時には耐えることも必要です。

「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」

ローマ信徒への手紙 5:3-4

そうすることで、咲ける時が来ることだって、あると私は信じています。

「無駄」を省きすぎない余裕

「無理ゲー」といわれたものを実際にプレイしてみると、意外や意外、結構楽しめるなんてこと、実はあったりするかもです。

格闘ゲームやホラーなど、バイオレンス要素が苦手だった私ですが、「アクション」自体が楽しめなかったわけではなく、後に「音楽ゲーム」や「スポーツゲーム」などの魅力にはまって、HSPなりにもオタクライフを楽しめています。

学生時代の時「クソゲー」と呼ばれるものをプレイした経験が、今の自分に生きているんじゃないか、そんな気さえしてくるのです。

昨今、「タイパ」とか「効率」が重視されがちな世の中ではありますが、なんというか、「余裕のなさ」が目立つ気もするのです。

以前の投稿「サブカル考」にも書きましたが、RPGでいう「メインクエスト」だけでなく、「サブクエスト」を拾っていく心の余裕を持っていたいと感じる、今日この頃です。

最後に

…あ、ほんとのホントに生死にかかわるような絶望的な「無理ゲー」に出会ったらすぐに離脱してください!!!!
(いのちを だいじに)

スズカさんがお礼を言いたいようです


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