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震災10年~福島にこだわり、これからも取材と発信を止めない~

戦後最悪ともいえる東日本大震災の発生から、今日3月11日で丸10年となった。率直に震災から10年と聞くと、短く感じたし、長かったとも感じた。単純に数字だけで考えるとあっという間だった一方、10年間の活動を細かく振り返ると10年が長く感じたりと、場面によって月日の流れの感じ方はバラバラ。どちらとも言い難いのが正直な感想。

私もこの10年を振り返ると震災発生した年から、東北の被災地に支援活動で訪れたり、復興の様子を取材するために訪れたりしてきた。一時期は「暇さえあれば東北の被災地へ」と口にしながら行ったことも。そんな思いもあってか、岩手・宮城・福島の被災沿岸部はほとんど訪れた。支援活動をしながら、被災地の現状を自分の目で確認し、現地の方々とお話をしながら、自分にできる東北被災地への支援を考え続けた。その結果、これまで知らなかった東北地方の魅力であったり、困った人を助けることへのやりがいや大変さ、支援活動をしてきた人間だからこそ他の土地に向けての情報発信をする大切さを知り、学ぶことができた10年間だった。

福島への熱い思い

しかし、なかなか自分の思いを実現するのに時間がかかったこともあった。その一つが、福島県での復興支援だ。現地で支援活動するにあたり、被害の大きかった東北3県(岩手・宮城・福島)は絶対に訪れたいと決めていた。だがご存知の通り、福島県は原発事故の影響で立ち入り区域が制限されていたため、支援活動の数も少なかった。

加えて、当時(2011年)私は大学2年生であり、実家暮らしだった。福島に行きたいと告げると「何であんな危ないところ行くの!」と止められたこともあり、福島行きがなかなか実現しなかったのだ。

このままじゃ福島に行くことはできないんじゃないかと思っていた2013年、ようやく2年越しで訪れることができた。その時は、今まで行けなかった分、これまで以上に精一杯頑張ろうと意思が固かった。私がこれほど福島県に対して強く意識を持っているのは、やはり原発事故の影響が大きかったからだ。人が住んでいた町から人が1人もいなくなるというのは、当時大学生の私にとっては衝撃だった。自分の立場だったら、故郷がある日突然、住めなくなって追い出されることは、考えたくもないし自分には耐えられない。そう考えると、原発事故によって他地域へ避難された方々を精一杯支援していきたい思いが自然と芽生えてきたのだ。

自分への宿題

2013年以降は、岩手・宮城はもちろん、時間を作って訪れ支援の手を緩めなかったが、福島に関しては毎年訪れた。訪れる目的が、支援活動以外の取材や観光でも。特に、事故当時は帰還困難区域に指定されたが、除染が進んだことで、今は解除され人が戻れるようになった地域にフォーカスを当てている。最も多いのは浪江町で、2017年~2019年と2021年に訪問。2021年には初めて、双葉町を訪問した。双葉町は解除されたとはいえ、まだ人が住める状況ではないため、町を歩いていても、人と遭遇することはなかった。

まだまだ復興道半ばの地域もある福島だが、少しでも支援ができることがあるならば、ぜひ積極的に参加したいし、復興の様子を取材・撮影し、県外の人に情報発信していきたい。生活再建が進んでいる様子といった明るい場面を広く発信することが、私が今後するべき福島の復興だと感じる。

11年目以降も、復興へ願いをこめて

福島に限らず、岩手・宮城の被災地、それ以外の被災地も、まだまだ復興はこれからという地域も多いはず。特にこの10年間は、苦悩や葛藤を抱えながら過ごしてきたと思う。言われなき誹謗中傷や風評被害を受けたことで、生きることから放棄しようと考えた方もいるのではないだろうか。一日でも早く生活再建が進み、笑え合える日が来ることを願いたい。今日からまた改めて、今日まで我慢してきた日々が少しでも報われるように、喜ばれる支援を継続しいくことを、ここに約束します。

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亡くなられた方々に謹んで哀悼の意を捧げるとともに、ご遺族の方々にお悔やみを申し上げます。また、被災された方、今も避難生活を余儀なくされている方々に心からお見舞いを申し上げます。
この間、復旧復興に向けてご努力されてこられた全ての方々に、心から敬意を表します。

サポートされた資金は、すべて取材費用に充て、質の高く共有されやすい記事を皆さまにお届けしたいと考えています。