育児は「いつの間にかできなくなる」の繰り返しだ、と気づいた

5歳の息子と休日に公園で遊び、帰り道で手をつなぎ、歩きながら話をした。話といっても、ほとんどは息子のマシンガントークに相槌を打つだけ。よくそんなに喋ることがあるなと感心するくらい、切れ目なく喋り続けている。

そうしていて、ふと気づいた。「いま、息子と話をしているな」と。

息子は歩くのは遅かったが、喋るのは早かった。少しずつ言葉が増えていく息子を見て、何を言いたいのか想像して、読み取ってあげて。2歳になるころには意思疎通ができるようになって、3歳になるころには会話が成立していた。

だから5歳になった息子と会話ができるのは当たり前。でも、いつからこうして会話できていたかは、はっきりしない。2歳では通じない言葉が多かったし、3歳で今と同じというわけでもない。

いまは、息子が何を言おうとしているのかを想像して、読み取ってやる必要はない。いつの間にか、必要なくなっていた。

トイレを手伝ったり、ご飯を食べさせたり、オムツを替えたり、夜中に起きてミルクをやったり……どれもこれも、もう必要ない。

それらがいつ必要なくなったのか、もうはっきりとは覚えていない。ただ、どれも私が辞めようと決めたわけではなく、息子の成長に従って必要なくなり、やらなくなった。

逆に言えば、もう、やろうとしてもできない。いまは、口の達者な息子が言いたいことに想像の余地はない。

いま、5歳の息子は、親である私と手を繋いで歩き、延々と私に語り掛けてくる。しかし、そう遠くない未来、手を繋いで歩いてくれることはなくなるだろう。休日に公園で一緒に遊ぶことも、一緒に歩いて帰ることも、できなくなるだろう。

事あるごとに「あれってなに?」と聞かれることもなくなるだろうし、背中を見せると飛びついてきておんぶをせがむこともなくなるだろう。風呂で頭を洗ってやることもなくなるだろうし、寝かしつけも必要なくなるだろう。

それがいつなのかはわからないけれど、いつかは必要なくなる。終わってみれば、それがいつなのかわからなくなり、いつの間にかできなくなるのだろう。

育児は子供の元気さ、奔放さに振り回され、大変なことばかり。私にとっては我が身より大切な息子だけれど、だからといって息子といれば全部可愛い楽しいで過ごせるわけでもない。どう考えたって1人でいた方が楽だ。

それでも、「もう息子が何を言おうとしているのかと想像することはできない」と思うと、ちょっと残念な気持ちになる。当時はあんなに大変だったはずなのに、もう1回あの時の息子を見て、何を言いたいのか想像してみたいなと思う。

今のこの大変さも、いずれは「いつの間にかできなくなって残念」と思う日が来るのだろう。だから、ほんの少しだけ、今をより大事に思って、手を繋いで話をしてくれる息子の姿を記憶に留めておきたい。

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