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「見て学ぶ」に「調べる」は、ある種の生存スキルかも知れない

僕も昭和生まれなんでその名残の文化の中で育ったんですが、今でも日本的なひとつの習い方に「見て学べ」という風習というか慣習が残ってます。特に少しご年配の方などはそれが物事の習得方法のスタンダードだったので、それが色濃く残っていたりします。
 
 
これは僕の勝手な仮説と自分のうっすら残っている感触からの私見なんですが、今までの「見て学ぶ」という学習概念というのは、いわゆる職人的な技能指導のようなところからきているもので、そんなに万能な思想ではないんだろうなぁと思うんです。限られた選択肢を伝承的に継いでいっていたという感じ。
 
 
つまり昔は「見て学ぶ」というのが、学習についてのある種の基本性能として当たり前の風土慣習だったけど、世の中自体が「標準化」に舵を切って、学歴や知識への偏重が社会としてスタンダードになると、学習文化自体の水準が上がるので座学優先になり、見て学ぶよりも先に学習が立ってそれを実践で固めていく、みたいなものが学習の新たな基本、みたいなカタチになっていったのかなぁ、と僕は思っています。
 
 
どこかの世代間で、「見て学ぶ」が当たり前の世代から「学んで実践経験」が当たり前の世代になって来ているはずで、学習そのもののテンプレート自体が変わったことにより、なんとなく「見て学ぶ」という学習概念が使い古されたものとして見られるようになっていったような気がします。
 
 
 

学びというものが体系化されたり蓄積されるようになると、情報が本などにストックされるようになり、今度は学ぶために「調べる」という事が行えるようになります。
 
 

それが現代では本だけでなく「インターネット」に引き継がれ、より多くの情報に多くの人がアクセスする事が出来るようになりました。
そうなると今度は学ぶという事がカジュアルになり、それに比例するように情報は多くなって、多分知識という意味じゃ手に入らないものはないくらいの時代が今です。
 
 
 
ところが。
 
 
 
上がりきった学習文化はむしろ人を頭でっかちにしていって、実体験を必ずしも伴わなくても知る事ができるだけに、一周回って今度は膨大な情報に振り回されてしまい、正しい情報に触れる事の難易度が上がってしまうという状況が生まれるようになりました。
 
 
そうなると一次情報である「見て学ぶ」、つまり体験という事実を伴った学びが、再び価値を持つようになっている、という状況が生まれてきたように感じています。
 
 
 
 
そんな私見混じりの前置きを踏まえての話です。
 
 
 
障害の有無に関わらず、な話だと思うんですが、改めて「見て学ぶ」は学習スキルのひとつとしてきちんと確立しておいた方がいいと考えています。
 
 
ただ、ひと世代前の慣習論として導入するのではなく、「見て学ぶ、というひとつのスキルを学んでおく」という感じでしょうか。
ややこしいですね。
 
 
学ぶ、ってどうしても今の感覚だと「教えてもらって学ぶ」な気がするんです。例え対象の事柄を見ていても「教えてもらうプロセスがある」ということが認知の前提にあるからまさか今目の前で見ているその瞬間が学びのプロセスだ、とは思わずに「ただ見ている」という事は少なくないんじゃないかと。
 
 
見て学ぶ、を自身の学習スキルの価値観として持っている人とそうじゃない人が確実に存在しています。
これは優劣の問題でも良い悪いの問題でもなく、先ほど書いたように学習について各々が持ち合わせているテンプレートが違うので、「見ていたのに何もそこから学び取っていなかったのか」という議論自体の前提が成立していないんじゃないかと考えるんです。
 
 
よく僕ら支援者は、利用者さんの直接支援の場面において、視覚が優位な方には前もって「見て覚えれる?」とか「まずは見て覚えてみよう」などをお伝えした上で、つまり見て学ぶという機会を設定して仕事の習得を促したり、物事の理解を視覚的に進めようとアプローチすることがあります。
 
 
何が言いたいかというと、「見て学ぶ」という方法を慣習ではなく一度「学習過程」としてフォーカスするんです。
その上で、伝え方は様々ですが「見て学ぶ」ということを学習スキルとして身につけておくことを改めてお教えするんです。
 
 
ちょっと面倒に感じるかもしれませんが、わざわざこういうプロセスを踏まないと結局その方の学習テンプレートは「教えてもらって」というスタートから変わらないんじゃないかと思うんです。
 
 
見て学ぶということを「慣習」ではなくスキルとして身につける、という事でそもそもの前提をすり合わせておくわけです。
そうじゃないと「見ていたのに何も学び取らなかったのか」という議論も成立しません。そんなことを言ってみても「それならそうと教えてもらわないと分かるわけないじゃん」という平行線を抜け出すことができないので、合理的ではありません。
 
 
 
学習のテンプレートに「教えてもらって学ぶ」、そして「見て学ぶ」が揃ったら次は「分からない事を調べて学ぶ」というスキルです。
 
 
 
意外と、ですが、このインターネット全盛の時代でも「調べる」をされない方って意外と少なくないんじゃないかと思うんです。
いや、正確にはやってるんです、調べる自体は。
でもそれを学習スキルとして用いていない、というのが正確なのかもしれません。
 
 
まぁ今の時代、調べるといってもちょっとだけ難しくて、ググれば大体の物事の解答は出てくるんですが、何が正しい情報なのか、という精査までして正しい情報を得て初めて「調べて学ぶ」が完了するので、調べるということひとつ取っても、情報精査スキルや検索スキル、取捨選択スキルなど意外と多岐に渡ります。
 
 
少し前はそれを文献から探さないといけなかったので手間はかかっていたんですが、今は本棚から該当しそうなワードを探してその本の中から解答を求めていくやり方ではなく、先に検索ワードで検索して、インターネットというとんでもない量の本棚から、しかも全部解答っぽい事が書いてある本棚から適切なものを取り上げないといけないので、調べる、というスキル自体の定義が変わっています。
 
 
僕は個人的にはこの「検索スキル」と「情報精査・選択スキル」はそれこそ学校などで授業として教えても良いんじゃないかと思えるくらい難易度が高いんじゃないかと思っています。
 
 
 
ちょっとあまりまとまりがなくなっているかもしれないので、少しだけ整理します。
 
 
今の時代の「学ぶ」って、まず教えてもらうというプロセスが前提に置かれていて、見て学ぶって当たり前じゃない。
だから見て学ぶ、という事を習得したり習慣化するためのプロセスはどういう形かで設定しておいた方がいい。「見て学ぶ」という学習スキルとして習得する、が必要。
その上で、今の情報過多な時代の中で「教えてもらう」はもちろん大事だが、調べるという学習スキルも持っておかないと結構困るんじゃないか。
でもひと口に「調べる」と言ってもインターネット全盛の時代、「検索スキル」「情報の精査と取捨選択スキル」が本や伝え聞きの時代とは違うので、きちんと身につけられる環境なのか機会なのか分からないけど必要だよね。
 
 
という話です。
 
 
 
なんでこんな話題を書いたのか、というと、僕自身利用者さんの支援の中で社会生活を送るために関わらせてもらうんですが、「教えてもらっていないから知らない」だから知らなくても問題ない、と思っていたことが、社会に出てから一気に困り感や生きづらさみたいなことに直結する事が少なくない事を感じたからです。
 
 
そして障害の有無に関わらず、自身の学習スキルの引き出しを持っていないと本人の成長が妨げられてしまってしまう事を結構いろんな場面で感じるからです。
 
 
今の時代は知識の有無も大事でしょうし資格や技術も大事なんだと思うんですが、そもそもの学び取るスキルの方が生存していくために、というと大袈裟ですが、その重要度の方が圧倒的に高いと思います。その割に、それこそどこかしこで教えてもらえるものではなかったりするので、これって大事だよなという事で書き記しておこうと思い、書かせてもらいました。
 
 
この記事自体が何か役に立つわけではないと思うんですが、学習スキルというものを見直すきっかけになればいいな、と思います。

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